大村長府(1870-1925)は、奈良県大和郡山市に生まれ、明治21年、19歳の時に洋画家を志して上京、本多錦吉郎に師事し、翌年本多らによって結成された日本最初の洋画団体である明治美術会の第1回展に出品した。明治23、24年頃帰郷し、明治35年奈良市に移り住んだ。
大正元年頃、「直観画」と名付けた自己の画論をうちたて、以後その普及を図った。大正9年、イギリスのローヤル・アカデミーに出品作2点が入選、翌年のフランスのサロンで出品作1点が入選を果たした。いずれも日本からの送付出品だった。
大正13年、明治神宮外苑内の聖徳記念絵画館壁画の分担揮毫の依頼を受け、「教育勅語下賜図」の下図調査に取り掛かったが肝臓病のため療養、翌年死去した。
掲載の「家族団欒図」は、大村長府の作と推測されているもので、作者の家族をモデルにしたと思われる。
大村長府(1870-1925)おおむら・ちょうふ
明治3年奈良県大和郡山市生まれ。幼名は聴松。明治21年上京して本多錦吉郎に師事。明治22年明治美術会第1回展に出品。東洋哲学などを学ぶかたわら、独自画論「直観画」をうちたて普及につとめた。大正9年イギリスのローヤル・アカデミー入選、翌年ソシエテ・デ・ザルティスト・フランセ入選。大正11年英国皇太子に「倭舞」を献上。大正13年明治神宮外苑内の聖徳記念絵画館壁画の分担揮毫の依頼を受け「教育勅語下賜図」の下図調査に取り掛かるが、翌大正14年、56歳で死去した。
奈良(05)-画人伝・INDEX
文献:美の新風 奈良と洋画、描かれえた大和