画人伝・大分 日本洋画の先覚者 風俗図・日常風景

消えた近代日本洋画の開拓者・藤雅三

藤雅三「破れたシャツ」米国ジョスリン美術館蔵

この作品は、米国ネブラスカ州オマハのジョスリン美術館に所蔵されていたもので、来歴などの問い合わせを受けた愛知県美術館の高橋秀治美術課長(当時)の調査により、平成20年(2008)、藤雅三の作品であることが確認された。「破れたシャツ」は、明治21年(1888)にソシエテ・デ・ザルティスト・フランセのサロンに入選した藤雅三の代表作で、120年間所在が不明だった。調査の経緯については美術研究第396号「藤雅三《破れたシャツ》発見報告」で報告されている。なお、藤雅三のよみ方は「ふじ・まさぞう」ではなく「ふじ・がぞう」であることは、アメリカでの藤の活動を研究している瀧井直子によって明らかにされているが、この作品の作家名リストにも「FOUJI(G.)」とあった。

近代日本洋画の発展において大きな役割を果たした画家に黒田清輝(1866-1924)、そして久米桂一郎(1866-1934)がいる。彼らが渡仏後に日本にもたらした外光派風の画風は、やがて近代日本洋画の主流となり、のちの官展アカデミズムにも大きな影響を与えた。しかし、フランスで外光派を学んだ日本人は黒田、久米だけではなく、二人よりも早く外光表現を学び、黒田を画家の道に導き、久米に絵の指導をした人物がいた。その人物こそが、五姓田義松についで日本人で2番目にサロン入選を果たし、画家としての活躍が見えてきた矢先、なぜか消息を絶った藤雅三(1853-1916)である。

藤雅三は大分県臼杵市に生まれ、はじめ南画を学び、10代の頃には陶器の絵付けも手掛けた。その後上京して彰技堂に学び、ついで工部美術学校でイタイア人教師・フォンタネージに洋画技法を学んだ。同窓に、浅井忠、松岡寿、五姓田義松、山本芳翠らがいる。工部美術学校閉校後は工部省に就職、この頃、久米桂一郎が藤に弟子入りしている。藤にとっては一番弟子となる。久米の日記には、明治17年のほぼ1年間、藤に指導を受けた様子が記されている。

その後、藤は洋画研究のために渡仏、ラファエル・コランの外光派の作品に魅了され、コランの指導を受けることになった。藤が黒田と知り合ったのはこの頃で、黒田に通訳を依頼したことが切っ掛けとされる。黒田は藤より1年早くフランスに来ていて、当初の目的は法律を学ぶことであり、美術とは関係がなかった。しかし、藤は黒田に画学の修業を勧め、たびたび黒田を誘っては郊外に写生に行き、鉛筆画の指導をした。その結果、黒田もコランに弟子入りすることとなり、同年、藤を頼って渡仏した久米桂一郎を加え、3人でコランに学ぶようになった。

久米がパリに到着した翌日から、藤と久米は毎日のように会い、黒田も加えた3人は兄弟同然の付き合いをしていたという。しかし、その関係も、明治21年を境に次第に壊れはじめる。この年は「破れたシャツ」がサロンに入選した年で、さらに翌年にはパリ万国博覧会に出品するなど、藤が画家として活躍をしはじめた頃なのだが、藤は二人の前から突如姿を消し、消息を絶ってしまう。黒田は当時を回想して「結婚前までは私と久米と藤という間は兄弟同様の間でやって総て遠慮なく話し合ってをったが、結婚すると間もなく亜米利加に行って了ったと云うことを聞いたが、その後はハタと遠ざかって了った」と記している。

詳しい事情は定かではないが、黒田の書簡や久米の雑誌記事などから推測すると、藤はフランス人モデルとの結婚に失敗して悲惨な生活に陥り、師のコランとの仲も壊れてしまい、黒田と久米に相談することなく渡米したと思われる。アメリカに渡った藤は、ニューヨーク付近の陶器工場の図案主任として暮らし、そのまま日本に帰ることなく、大正5年、アメリカの自宅で没した。

帰国することのなかった藤が、近代日本洋画の発展に直接参画することはなかったが、藤の存在がなければ、画家としての黒田や久米の存在もなかったかもしれない。そうすれば、日本にラフェエル・コランの流れを汲む外光派の作風が持ち込まれることもなく、日本の洋画界は異なった道を歩いていたかもしれない。

藤雅三(1853-1916)
嘉永6年臼杵市生まれ。はじめ帆足杏雨に南画を学び、米岳という号で数点の画幅を残している。また、10代の頃から地元の陶窯丸山焼の絵付けも手がけた。明治9年上京し、わずかの間だが画塾彰技堂に籍を置き、明治10年に開設された工部美術学校に入学、イタリア人教師アントニオ・フォンタネージに師事した。同窓には、浅井忠、松岡寿、五姓田義松、山本芳翠らがいる。明治14年の第2回内国勧業博覧会に曽山幸彦、松室重剛とともにコンテ素描を出品して話題を呼んだ。明治16年工部美術学校が閉校となり、工部省に就職した。明治18年、工部省技手として洋画研究のため渡仏。リュクサンブール美術館に展示されていたラファエル・コランの作品に魅せられ、早速コランに入門して、古典的写実をベースに抑揚のきいた外光表現を学ぶことになった。翌19年には法律を学ぶために留学中の黒田清輝や、藤を頼って渡欧した弟子の久米桂一郎も加わって、ともにアカデミー・コラロッシのコラン教室に学んだ。明治21年ソシエテ・デ・ザルティスト・フランセのサロンに「破れたズボン」が入選。次第に画家としての活躍がみられるようになった矢先、フランス人女性との結婚問題がもとでコランや黒田、久米らとは疎遠になり、明治25年明治美術会春季展に黒田の「読書」とともに「婦人雪行」が参考出品されたのを最後に制作活動についての記録は途絶えてしまう。のちに渡米してニューヨーク近郊の製陶工場の図案主任となるが、大正5年、再び祖国の土を踏むことなく、62歳で同地で死去した。

大分(35)-画人伝・INDEX

文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県文化百年史、大分県地方史147号「日本近代洋画と藤雅三」(著者:後藤龍二)、明治美術学会誌 近代画説14「藤雅三の仕事-アメリカでの活動を中心に」・同15「美術史探訪 藤雅三の墓」(著者:瀧井直子)、美術研究第396号「藤雅三《破れたシャツ》発見報告」(著者:高橋秀治)




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