南蘋派は、清から渡来した沈南蘋によって伝えられた画風で、緻密な写生と鮮やかな彩色が特徴である。沈南蘋は、享保16年に渡来して18年まで長崎に滞在しており、この間に、中国語の通訳である唐通事をしていた熊代熊斐(1712-1772)に画法が伝授された。南蘋に直接師事した日本人は熊斐ただひとりであり、熊斐の元には多くの門人が集まり、その中からは鶴亭、森蘭斎、宋紫石らが出て、南蘋の画法は全国に広まっていった。熊斐の作画活動については、唐絵目利などの本業ではなかったこともあり不明な点が多い。
熊代熊斐(1712-1772)くましろ・ゆうひ
正徳2年生まれ。神代甚左衛門。長崎の人。唐通事。はじめ神代で、のちに熊代に改姓した。名は斐、字は淇瞻、通称は彦之進、のちに甚左衛門。号は繍江。はじめ唐絵目利の渡辺家に画を学び、享保17年に官許を得て清の画家・沈南蘋に師事した。享保18年の南蘋帰国後は、享保20年に来日した高乾に3年間師事したという。南蘋に師事したのは9ケ月のみだったが、南蘋に直接師事したのは熊斐だけであり、熊斐を通じて南蘋の画風は全国にひろまっていった。官職としては、元文4年に養父の神代久右衛門(白石窓雲)の跡を継ぎ内通事小頭となり、明和3年に稽古通事となった。安永元年、61歳で死去した。
沈南蘋(1682-不明)しん・なんぴん
清の浙江省呉興の人。名は銓、字は衡斎。師の胡湄は明の呂紀風の花鳥画をよくしたという。享保16年に高乾、高鈞らの門弟とともに長崎に渡来した。将軍徳川吉宗が唐絵の持込みを命じたことによるという。長崎に享保18年まで留まり、熊斐に画法を授けた。熊斐を通じて伝わった南蘋の画風はその後の日本絵画に大きな影響を与えた。帰国後は浙江・江蘇省地方を中心に活動したが、求めに応じて日本へ作品を送っていたという。
高乾(不明-不明)こうけん
清の浙江省の人。字は其昌、萍菴と号した。沈南蘋の門弟。師とともに長崎に渡来した。一説には南蘋が帰国した年の翌年渡来。
鄭培(不明-不明)ていばい
清の浙江省呉興県苕溪の人。字は山如、号は古亭。沈南蘋の門弟。享保16年に沈南蘋とともに来日したと伝えられてきたが、宋紫岩と一緒に来日したとする説もある。
高鈞(不明-不明)こうきん
霽亭と号した。沈南蘋の門弟。師とともに長崎に渡来した。
宋紫石(1715-1786)そう・しせき
正徳5年生まれ。江戸の人。本名は楠本幸八郎。字は君赫、霞亭。別号に雪溪、雪湖、霞亭、宋岳などがある。長崎に遊学して熊斐に学び、また清の宋紫岩にも師事した。宋紫岩に学んだことから宋紫石と名乗った。江戸で南蘋風をひろめた。平賀源内とも交友があり、司馬江漢にも画法を伝えた。南蘋派で最も洋風画に接近した画風で、余白を多くとり軽く明るい画面を生み出した。天明6年、75歳で死去した。
鶴亭(1722-1785)かくてい
享保2年生まれ。長崎の人。黄檗僧海眼浄光。名ははじめ浄博、のちに浄光、字ははじめ恵達、のちに海眼。別号に如是、五字庵、南窓翁、墨翁、壽米翁、白羊山人などがある。長崎の聖福寺で嗣法するが、延享3、4年頃還俗して上方に移住した。長崎で熊斐に学び、上方に南蘋風を伝えた。木村蒹葭堂、柳沢淇園らと交友した。明和3年頃に再び僧に戻り、黄檗僧になってからは主に水墨画を描いた。天明5年、江戸において64歳で死去した。
黒川亀玉(初代)(1732-1756)くろかわ・きぎょく
元禄15年生まれ。江戸の人。名は安定、字は子保。号は松蘿館・商山処士。はじめ狩野派を学び、のちに沈南蘋の筆意を慕った。宝暦6年、55歳で死去した。
真村蘆江(1755-1795)まむら・ろこう
宝暦5年生まれ。長崎の人。名は斐瞻、通称は長之助。別号に耕雲山人がある。熊斐に画を学んだ。寛政7年、41歳で死去した。
大友月湖(不明-不明)おおとも・げっこ
長崎の人。名は清、通称は内記。別号に沈静がある。熊斐に画を学び、山水を得意とした。
熊斐文(1747-1813)ゆうひぶん
延享4年生まれ。熊斐の長男。通称は銭屋利左衛門、名は章。繍山と号した。文化10年、67歳で死去した。
熊斐明(1752-1815)ゆうひめい
宝暦2年生まれ。熊斐の二男。名は斐明、通称は神代陽八。繍滸、竹菴と号した。父に画を学んだ。文化12年、64歳で死去した。
諸葛監(1717-1790)しょかつ・かん
享保2年生まれ。江戸両国の人。通称は清水又四郎、字は子文、静齋または古画堂と号した。名は来舶清人の諸葛晋にちなんだもの。長崎に行くことなく、独学で南蘋風を学んだと思われる。寛政2年、74歳で死去した。
松林山人(不明-1792)まつばやし・さんじん
長崎の人。姓ははじめ松林、のちに林、名は儼、字は雅膽。熊斐に師事した。着色に秀で花鳥を得意とした。安永年間に江戸に出て浅草に住んでいた。寛政4年、江戸で死去した。
宋紫山(1733-1805)そう・しざん
享保18年生まれ。宋紫石の子。尾張藩御用絵師。名は白奎、字は君錫、苔溪とも称した。父の画法に忠実に従った。文化2年、73歳で死去した。
藤田錦江(不明-1773)ふじた・きんこう
江戸の人。出羽国庄内藩酒井家藩士。名は景龍、包擧ともいった。字は瑞雲、錦江は号。通称は宇内。画を宋紫石に学んだと伝わっている。安永3年死去した。
森蘭斎(1740-1801)もり・らんさい
元文5年生まれ。越後の人。名は文祥、字は九江・子禎。別号に鳴鶴がある。本姓は森田氏。長崎に出て熊斐に学んだ。熊斐没後の安永2年に大坂に移り、『蘭斎画譜』8冊を刊行、江戸に移り没後の享和2年に『蘭斎画譜続編』が刊行された。熊斐の画風を遵守し、南蘋派が受け入れられるところに移動していったと思われる。享和元年、62歳で死去した。
董九如(1745-1802)とう・きゅうじょ
延享元年生まれ。名は弘梁、字は仲漁。別号に廣川居士、黄蘆園などがある。宋紫石に画を学んだ。享和2年、59歳で死去した。
勝野范古(不明-1758)かつの・はんこ
長崎の人。柳溪と号し、二蔵と称した。師系は不明だが、南蘋の画法を学んだと思われる。宝暦8年死去した。
宋紫崗(1781-1850)そう・しこう
天明元年生まれ。宋紫山の子。名は琳、字は玉林。別号に雪溪、聴松堂がある。嘉永3年、70歳で死去した。
洞楊谷(1760-1801)とう・ようこく
宝暦10年生まれ。長崎の人。片山楊谷。名は貞雄、通称は宗馬。沈南蘋の画法を学んだ。寛政5年因州の茶道家・片山宗杷の家を継いだ。享和元年、42歳で死去した。
→紫の糸で長い髪を束ね、大道を闊歩した鬼才・片山楊谷
福田錦江(1794-1874)ふくだ・きんこう
寛政6年生まれ。長崎の人。名は範、字は君常、通称は範二郎。別号に竹園がある。はじめ画を熊斐に学び、のちに南蘋の画法に倣った。明治7年、81歳で死去した。
鏑木梅溪(1750-1803)かぶらぎ・ばいけい
寛延2年生まれ。長崎の人。名は世胤・世融、字は君冑・子和、通称は弥十郎。はじめ田中氏、また平氏を名乗った。江戸に出て鏑木氏の養子となった。荒木元融の門人で、沈南蘋に私淑したと思われる。享和3年、59歳で死去した。
長崎(10)-画人伝・INDEX
文献:沈南蘋と南蘋系絵画、江戸の異国趣味-南蘋風大流行-、宋紫石とその時代