東京神田紺屋町の古道具屋の家に生まれた登内微笑(1891-1964)は、2歳で母と死別し、父の郷里である手良村(現在の伊那市)で少年時代を過ごした。小学校卒業後は、農業を手伝っていたが、絵ばかり描いていたという。
17歳で上京して寺崎広業の門に入り、同門の町田曲江とともに、美術研精会や巽画会に出品した。巽画会は、当時、日本美術協会に次ぐ大きな美術団体で、同郷の先輩である菱田春草が審査員をしていた。微笑は春草の影響を受け、新画風の作品にも挑んだ。
東京で10年ほど過ごしたあと、同門の曲江の勧めにより、京都に移り菊池契月に師事した。この頃、雅号を仏教関係の言葉「破顔微笑せり」からとって「微笑」とし、終生の号とした。
大正9年、第2回帝展に初入選。晩学だったが、大正11年には京都絵画専門学校に入学し、大正14年に34歳で卒業した。また、同年第6回帝展で特選を獲得、第8回帝展でも再び特選となり、一躍名声は上がり、伝統ある京都絵専を出たこともあり仕事が増え、京都鹿ヶ谷に画室を建て、京都に定住することにした。
昭和5年から昭和20年まで京都美術工芸学校で教鞭をとり、昭和30年には京都小御所の襖絵修理の仕事に携わり、自ら揮毫して作品を納めた。帝展に続く新文展では無鑑査出品を続け、戦後は日展に出品し、京都画壇で堅実な歩みを続けた。
登内微笑(1891-1964)とのうち・みしょう
明治24年東京市神田生まれ。名は正吉。2歳で母を失い、父の故郷の手良村(現在の伊那市)で育った。高等小学校卒業後、明治41年に上京、はじめ松倉玉村に学び、ついで寺崎広業に師事した。広業没後の大正7年には京都に移り菊池契月に師事した。大正9年第2回帝展に初入選し、以後も帝展に出品した。大正11年、京都市立絵画専門学校に入学、大正14年同校を卒業した。同年第6回帝展で特選。昭和2年第8回帝展で再び特選となり、第9回帝展で推薦、第10回帝展で審査員をつとめた。その後も新文展に出品、戦後は日展に出品した。昭和39年、74歳で死去した。
長野(47)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第4巻、上伊那の美術 十人集、郷土美術全集(上伊那)、信州の美術、手良誌、長野県信濃美術館所蔵品目録 1990、 松本市美術館所蔵品目録 2002、長野県美術大事典