赤羽雪邦(1865-1928)は、東筑摩郡松本村並柳(現在の松本市並柳)の農家に生まれた。2、3歳の頃に父母を相次いで亡くし、母の実家で育てられた。幼いころから仙石翠淵の画塾で学び、小学校卒業後は京都に出て尾崎雪翁に師事、数年後に上京して橋本雅邦に師事した。「雪邦」の雅号は二人の師の雅号から1字ずつとって自ら名づけたという。
明治22年に東京美術学校が開校されると、1期生として入学した。同期に横山大観、下村観山、松本出身の西郷孤月、1年後輩に飯田出身の菱田春草がいた。この時、雪邦は25歳、大観は21歳、観山と孤月は17歳だった。在学中に病気のため右足を切断して一時休学していたため、31歳で卒業したが、同郷の孤月は21歳で卒業しており、この年齢差がのちの雪邦の画業に少なからぬ影響を与えることになる。
明治31年、いわゆる東京美術学校騒動が起きて岡倉天心が校長の職を追われ、同年天心を中心に日本美術院が設立された。美術学校の教員だった橋本雅邦をはじめ、大観、孤月、観山、春草らは天心と行動をともにし、日本美術院の設立に参加、新しい日本画を目指して新たな一歩を踏み出すが、当時34歳だった雪邦はそれに従っていない。
雪邦が天心らの日本画の革新を目指す動きに同調しなかったのは、年齢的な要因に加え、菅原白龍ら南画家との交流も関連していたと思われる。雪邦は、在学中から白龍ら南画家と全国各地の景勝地を巡る写生旅行をしており、その交流は卒業後も続いていた。その経験から、写生主義こそが自らの進む道だと信じていたと思われる。
明治37年、雪邦は40歳で洋画の研究と米国での日本画の紹介のため、ひとりで渡米した。松葉杖をたよりに各地を巡り、米国滞在は15年にも及んだ。さらに欧州にも行こうとしたが、第一次世界大戦が勃発したためやむなく大正7年に帰国した。
このあまりにも長い米国滞在の間に日本の美術界は大きく変わっていた。同学同窓の大観、観山らは日本画革新の大家として活躍し、後輩の若手でさえ名声を博していた。世のあまりの変わりように、雪邦は「浦島太郎のようだ」と漏らしたという。
大正8年、帰国の翌年に観山らの計らいによって、東京日本橋倶楽部で帰国報告の自作展を開催した。翌年には松本に帰り、郷里の人々の求めに応じて制作し、牛伏寺の鐘堂天井画「雲龍図」など多くの作品を残し、松本の美術振興に貢献した。
赤羽雪邦(1865-1928)あかはね・せっぽう
慶応元年東筑摩郡松本村並柳(現在の松本市並柳)生まれ。本名は順次、字は知足。はじめ仙石翠淵に学び、のちに京都に出て尾崎雪翁につき、ついで上京して橋本雅邦に師事した。明治22年、東京美術学校に1期生として入学。洋画や和漢を学び、卒業後は一時帰郷したが、その後、愛知県瀬戸で陶器の絵付けをした。明治32年、全国絵画共進会で1等褒状を受けた。明治37年に渡米、洋画を研究し15年間過ごし、大正7年に帰国、東京下谷に住んだ。大正8年、日本橋浜町の日本橋倶楽部で個展を開催。大正9年、松本市に転居した。昭和3年、64歳で死去した。
長野(39)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第2巻、松本の美術 十三人集、松本平の近代美術、アメリカに渡った美術家たち展、長野県信濃美術館所蔵品目録 1990、松本市美術館所蔵品目録 2002、長野県美術大事典