画人伝・宮崎 日本画家 歴史画

蒔絵にすぐれ日本画も手がけた秋月可山

秋月可山「武者絵」高鍋町歴史総合資料館蔵

大正9年(1920)に発行された「県政評論」では、秋月可山(1867-1932)、土居彩畝(1891-1987)に、延岡から宮崎に移り住んでいた佐藤小皐(1861-1928)を加え「三画人」と称し、「可山は蒔絵を独壇場、彩畝女史は花鳥の天品。一枝の花彼によって生き、一羽の鳥彼によって歌う。女史と小皐で画界の半々をしめる。小皐氏は軽快、瀟洒、平遠、清浅、淡雅、風自らすだれを開き、月自ら軒をうがつ」と評している。

秋月可山は、高鍋藩主秋月家の分家に生まれ、東京美術学校で蒔絵のほか四条派の画を修めた。漆工が専門だったが、東京美術学校の普通科では日本画家に指導を受けており、卒業後も日本画を多く描いた。高鍋町歴史総合資料館には明治42年作の「武者絵」(掲載作品)が収蔵されており、主題は特定できないが、何らかの場面を描いた歴史画と思われる。大正9年には宮崎に後援会「可山会」ができたという。

また、土居彩畝は、夫が宮崎刑務所の典獄だった時期の6年間を宮崎で過ごした。土佐派の荒木寛畝に師事し、日本美術会展で1等賞を受けるなど活躍した。

秋月可山(1867-1932)
慶応3年生まれ。父は高鍋藩主秋月家分家の新小路秋月家・秋月良種。幼名は兎太郎、のちに復郎。別号に紫明、炗雲がある。明治初年に上京し、明治22年に東京美術学校に第1回生として入学した。同校では普通科で2年間学び、専修科は漆工部に進み、明治27年蒔絵科を卒業した。その後、同校で明治29年2月から1年あまり調漆の教師、明治33年のパリ万国博覧会事務官などをつとめ、官命により渡仏し油絵の研究も行なった。また、宮内省で昭和天皇御成婚用の漆塗りの馬車制作にも携わった。昭和7年、66歳で死去した。

土居彩畝(1891-1987)
明治24年東京浅草生まれ。明治33年、9歳の時に荒木寛畝の門に入り、明治34年の第11回日本絵画協会共進会に入選した。以後は師の寛畝が関わった日本美術協会に出品した。明治41年には東宮殿下(後の大正天皇)が日本美術協会を訪れた際の御前揮毫を行なった。明治40年東京勧業博覧会、43年日英博覧会、大正12年から大正15年まで朝鮮美術展覧会に入選した。大正3年に夫が宮崎県典獄補として現在の宮崎市に赴任し、大正10年に朝鮮総督府典獄となって京城に渡るまでの6年間宮崎に滞在し、県内に数点の作品を残している。昭和62年、96歳で死去した。

宮崎(21)-画人伝・INDEX

文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展




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