山内多門(1878-1932)や益田玉城(1881-1955)らと同時代の都城の画家に、虎の絵を専門とした小山田秋甫(1873-1927)がいる。秋甫は、幼いころから絵筆をとっていたが、ある時、岐阜の日本画家・大橋翠石(1865-1945)の虎図を見て感嘆し、それ以来翠石に私淑し、独学で虎の絵を専門とする画家となった。虎を描くために自宅周辺にいた猫を観察したり、ひげの描写に実をとった稲穂を用いたりしたという。ほかに、都城の同時代の画家として、菊池栖月、江夏英璋らがいる。
小山田秋甫(1873-1927)
明治6年都城生まれ。本名は篤二。家は染織業を営んでいた。父・篤定は中原南渓に画を学んだ。秋甫も画才があり、幼いころから絵を好み絵筆をとっていたが、虎の絵の第一人者・大橋翠石の虎図を見てから、翠石に私淑し、模写を繰り返し、虎の専門画家になった。音曲や薩摩琵琶も得意とした。昭和2年、東京において54歳で死去した。
菊池栖月(1874-不明)
明治7年都城甲斐元生まれ。本名は武二。別号に芳岳、玉州がある。明治22年から四条派の赤池南鳳、北郷南水について学び、速見晴文、中原南渓のところに行き来した。のちに志布志の重玉峰という人について学んだ。明治27年近衛師団に入り上京、余暇に山内多門と交流した。のちに除隊して帰郷。京都日本美術展覧会その他に出品した。
江夏英璋(1876-1946)
明治9年都城上町生まれ。本名は三之助。別号に漁舟、豊山外史がある。はじめ都城で独学し、のちに上京して川端玉章、川合玉堂に師事した。『都城古今墨蹟集』『江夏家』によると、長野や高田馬場にある寺の壁画を手がけたという。県内に残された作品としては、孔雀や鶴など緻密な花鳥画、山水画、仏教的主題などの作品がある。飫肥城下の旧高橋源次郎家には板絵や襖絵が残されている。昭和21年、70歳で死去した。
宮崎(20)-画人伝・INDEX
文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展