菊田伊洲は、江戸出身の画家・武田竹亭の子として仙台に生まれ、幼いころから画才を発揮し、時期は不明だが、仙台藩御用絵師の家系・菊田東雨の養子となった。藩絵師の後継者となった伊洲は、前例にならい江戸に出て木挽町狩野家の八代目当主・狩野伊川院栄信に入門した。14歳の頃と思われる。
江戸での伊洲は、狩野派の規定に従い粉本を模写することで基本的な画技を身に付けていった。また、当時の狩野派が禁止していた文人画家との交遊も積極的に行ない、谷文晁らと親しく交わり、文晁らと「秋風館展覧会」にも出品している。こうした諸派との交流によって古画の鑑識眼を身に付け、画風の幅も広げていったと思われる。
狩野派19世紀最大の仕事となった江戸城の再建に伴う障壁画の制作にも参加し、嘉永3年から同5年にかけては、高野山諸寺院の障壁画も手がけた。伊洲の手による高野山の寺院に残る画は、現在確認されているものだけでも、四つの寺に所蔵されている総計100にも及ぶ大量の襖絵と床貼付絵がある。そのなかには門人と思われる筆致も確認できる。
高野山諸寺院の障壁画に健筆をふるっていた伊洲だが、嘉永5年に暴漢に襲われ、62歳で死亡している。『古画備考』によると「同国(陸奥)の人に切られ破傷風の傷がもとで死んだ」とあり、その背景には伊洲の養子問題があったらしく、「小島源左衛門(伊達上野家士)が、伊洲の養子になろうと謀ったが、その望みを遂げられずに恨み、伊洲と養子の桂州を傷つけて罪に問われた」と2年後の処罰に関する記述もある。
菊田伊洲(1791-1853)きくた・いしゅう
寛政3年仙台生まれ。名は秀行、通称は章羽。別号に松塢がある。本姓は武田、父は江戸出身の画家・武田竹亭。菊田東雨の養子となり、江戸に出て狩野伊川院栄信に学んだ。天保9年に江戸城西の丸、同15年には本丸が焼失した江戸城の再建に伴う障壁画制作に狩野派の一門として参加した。嘉永3年から同5年にかけて高野山諸寺院の障壁画を手がけた。門人に、杉沼無牛、そして養子となった菊田桂州がいる。娘婿に狩野養信の門人で塾頭だった佐久間晴岳がいる。嘉永5年、62歳で死去した。
杉沼無牛(1804-1845)すぎぬま・むぎゅう
菊田伊洲の門人。名は秀安、通称は善之丞。弘化2年、42歳で死去した。
菊田桂州(1818-1903)きくた・けいしゅう
文政12年生まれ。菊田伊洲の養子。名は篤。桃生郡中津山邑主・黒澤氏の家臣・織田作兵衛の二男。17歳の時に画を菊田伊洲に学び、伊洲の養子となった。のちに狩野勝川院雅信に随行し、全国各地を遊歴した。明治36年、76歳で死去した。
宮城(11)-画人伝・INDEX
文献:仙台藩の御用絵師 菊田伊洲、仙台四大画家、仙台画人伝、仙台市史通史編4(近世2)、仙台市史特別編3(美術工芸)、東北歴史博物館美術工芸資料図録、 仙台市博物館館蔵名品図録、福島美術館優品図録