
白隠「達磨図」大分・万寿寺蔵
白隠慧鶴(1685-1768)は、駿河国の原(現在の静岡県沼津市原)に生まれ、15歳の時に出家し、諸国を行脚して修行を重ね、信州の正受老人(道鏡慧端)の法を継いだ。32歳で郷里に帰り松蔭寺の住職となり、以後84歳で没するまで、この寺を拠点に精力的な布教活動を続け、臨済宗中興の祖と称された。
残された白隠の禅画は60歳代以後のものがほとんどだが、その数はおびただしく、数千とも1万ともいわれている。そのうち多数を占めるのは、戯画的でユーモアあふれるものだが、一方で達磨をはじめとする祖師の像を描く際には、気迫に満ちた力強い筆遣いをみせている。
大分・万寿寺に伝わる「達磨図」(掲載作品)は、縦2メートルもある大達磨で、最晩年の代表作である。下書きの線や制作過程の線などがいくつも見え、何度も直しながら描き進めていったことが分かる。背景の濃墨、眼球の白、衣の赤のコントラストが冴え、各所に飛び散った墨の飛沫に臨場感があふれている。蝋を引いて白抜きにした賛も斬新である。
白隠の型破りな作品は、京都の画家たちにも影響を与えたと思われる。池大雅は白隠に参禅し、一緒に旅にも出ている。曾我蕭白も、友人の大雅を通じて白隠画をみていたと思われ、達磨画などにみられる太い輪郭線は白隠の影響がうかがえる。また、長沢芦雪の人物画にも白隠門弟の禅画を通じての影響が認められている。
白隠慧鶴(1685-1768)はくいん・えかく
貞享2年駿河国の原(現在の静岡県沼津市原)生まれ。臨済宗の禅僧。俗姓は杉山。別号に鵠林などがある。15歳で松蔭寺の単嶺祖伝について得度。幼時のころから激しい妄想に悩まされ、自ら出家を願い出たという。各地で修行し、安永5年信州飯山の正受老人(道鏡慧端)から法を継ぎ、以後松蔭寺を拠点に活動した。若いころから書画に親しんでいたようだが、現存する作品はほとんど60歳代以降のもの。独学で奔放な書画を大量に描き、惜しみなく庶民に与えたという。明和5年、84歳で死去した。
京都(95)-画人伝・INDEX
文献:日本絵画名作101選、日本美術全集14、奇想の画家たち、江戸絵画入門、江戸の美術大図鑑







