UAG美術家研究所

江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま東北地方を探索中。

画人伝・山形 画僧・武人

山形県で最も早く名前が登場する画人・郷目貞繁

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郷目貞繁「神馬図絵馬」(重文)天童市・若松寺蔵
奉納銘に「観音御宝前 奉納馬形 旦那郷目右京進妻女菩薩故也 寒河江内郷目右京進貞繁(花押)干時永禄六年葵亥九月十八日」とあることから、永禄6年に画家自身が亡き妻の菩提を弔うために制作し奉納したものであることがわかる。

山形県の美術史上、最も早く画家として名前が登場するのは、室町時代末期に寒河江の大江家に仕えた武人・郷目貞繁(不明-不明)である。村山地方には、貞繁の作とされる絵画が20点ほど残っており、なかでも著名なのは、天童市・若松寺の観音堂に永禄6年に奉納された「神馬図絵馬」(掲載作品)で、国の重要文化財に指定されている。

作風は幅広く、山水、人物、花鳥、魚類など画題も豊富で、彩色、水墨など多彩な作品を手がけている。宋元画法や雪舟流、写実的な表現も使っていることから、幅広い古典画研究がうかがえ、京都に出て本格的に絵の修業したものと思われるが、貞繁に関する史実は少なく、生没年も明確には分かっていない。

貞繁の名が初めて記録に出てくるのは、永正17年(1520)の「高櫛の合戦」についての記述で、伊達氏との交戦によって伊達軍の捕虜になり、6年間も米沢に幽閉されていたと記されている。この時の年齢が20歳前後だと推定され、この捕虜生活ののち、貞繁は寒河江には戻らずに京都に上ったと思われる。

そのすぐれた画技からいくつかの伝説が残っている。福島県耶麻郡熱塩加納村の五ノ目神社には貞繁作とされる「鐘馗図」が残っている。この作品は、この地方に疫病が流行した際、京都から下ってきた一人の旅人が、悪疫退散のために描いたもので、この絵の効果によって村人たちの病気は治り、疫病は根絶された。村人たちはその功に報いようと神社を建て、その旅人が自身のことを「羽州のゴノメ」と名乗っていたため、「五ノ目神社」と名付けられたという。

また、貞繁は達磨や雁の絵を得意としており、貞繁が描いた「達磨」は、拝むと目が動くとされ、「芦雁図」に描かれた雁は、天変地異の前には羽ばたきをして知られるという言い伝えが残っている。その見事な出来ばえを賞賛するあまりに、こうした伝説が出来上がったと思われる。

郷目貞繁(不明-不明)ごうのめ・さだしげ
詳しい伝歴が不明の武人画家。寒河江の一帯を所領とした大江氏の家臣。右京進と称し、物頭をつとめたという。人物、山水、花鳥をよくし、精密な彩色画や仏画も描いているところから、本格的に画技を学んだと思われる。国の重要文化財に指定されている若松寺蔵「神馬図絵馬」のほか、「釈迦出山之図」「瀟湘八景画巻」「芦雁図」などの作品が残っており、山形県指定有形文化財に指定されている。貞繁の子孫は、寒河江の大江氏のお抱え絵師として二代、三代と続いている。

山形(1)-ネット検索で出てこない画家

文献:武蔵-武人画家と剣豪の世界展、東北画人伝、郷目右京進貞繁 復刻 (寒河江市史編纂叢書第8集)、郷土日本画の流れ展







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