
狩野元信「四季花鳥図」(8幅のうち2幅)重文 京都・大仙院蔵
狩野元信(1476-1559)は、狩野派初代・狩野正信の長男として京都に生まれ、はじめ父に画法を学び、さらに宋元画人のさまざまな筆法を研究し、父譲りの堅固な構成力を基に、元信様式ともいうべき明快で端正な画風を創出した。
さらに特筆すべきは、その画法を血族や門弟たちにわかりやすい形で提示し、集団的な作画活動が可能な体制を整えたことである。このことにより、狩野派は正信時代の個人経営を脱し、均質な絵画作品を大量生産することのできる絵師集団となった。
もうひとつの元信の功績として、狩野派のレパートリーを拡げたことがあげられる。妻が土佐光信の娘であったことから、その縁でやまと絵の画風にも食い込み、本来やまと絵系絵師たちが専門としていた絵巻や金碧画も手掛け、洛中洛外図などの風俗画、源氏物語図や三十六歌仙図といった画題にも取り組んだ。
そのような和漢の双方にまたがる元信の斬新な画法は多くの人々の関心を集め、幅広い顧客を獲得したと思われる。父正信の時代からのパトロンだった有力武家や社寺はもとより、禁裏や公家、さらには上層町衆までが狩野派の支持者となり、以後約400年にわたる繁栄の土台ができあがったといえる。
掲載の「四季花鳥図」は、もとは襖8面に描かれた真体の花鳥図で、現在は8福の掛け幅に替えられている。元信37歳の時の作品で、明快な構図と画面全体に広がる明るさは、室町水墨画が持つ幽暗な雰囲気とは異なる装飾性を強調しており、桃山障壁画の先駆をなすとも評されている。
狩野元信(1476-1559)かのう・もとのぶ
文明8年山城国(京都)生まれ。狩野正信の長男。通称は四郎次郎、大炊助。剃髪して永仙、玉川などと称した。はじめ父に学び、のちに周文や小栗宗湛の画風を学んだという。土佐光信の娘と結婚し、土佐派の研究もし、また中国画人馬遠、夏珪、牧谿などの画風も学び、画風および組織両面において狩野派の基礎を確立した。絵所預に補せられ、越後守となり、のちに法眼に叙せられた。狩野派はこの後何人かが法眼に叙されているため、のちに元信は「古法眼」と呼ばれた。永禄2年、84歳で死去した。
京都(48)-画人伝・INDEX
文献:日本絵画名作101選、室町時代の狩野派、狩野永徳と京狩野、狩野派決定版、日本の美術12周文から雪舟へ、日本の美術14桃山の障壁画、もっとしりたいやまと絵、やまと絵日本絵画の原点、日本美術全集9、原色日本の美術27在外美術(絵画)、日本美術絵画全集・第7巻、日本画家人名事典







