讃岐において、狩野派の画僧・實山と並び称されるのが、土佐派の流れを汲む画僧・鶴洲である。後年の活動から鶴洲を土佐派の画人とするには異論もあるが、鶴洲は、住吉派の祖である住吉如慶の子であり、住吉具慶の弟であることから、幼いころから土佐派の技法を受けたと思われる。加賀前田藩に仕えていたが、耳を病み聴覚障害となったため出家し、黄檗宗の画僧として活躍した。元禄元年初代藩主・松平頼重に招かれ、享保3年には自性庵を与えられ高松に定住した。その後、祥福寺の開山となり、そこで生涯を終えたとされる。
鶴洲の次の土佐派の画人としては、幕末期に活躍した森良敬がいる。土佐派の画人の系譜ははっきりしていないが、慶応2年の高松藩限帳には、狩野永笑と並び、森良敬が高松藩絵師に名を連ねている。良敬は、はじめ土佐派に学び、のちに松平頼該に招かれ高松藩絵師になったもので、その子・森直樹も幼いころから父・良敬から画技を学び、のちに住吉廣賢に師事して高松藩絵師となった。また、森良敬や土佐光文などに学んだ中村良谿もいる。
鶴洲(1641-1730)かくしゅう
名は広夏。土佐派の画人・住吉如慶の子、具慶の弟。加賀前田家に仕えていたたが、病気のため出家したといわれる。元禄元年松平頼重に招かれ、自性院を与えられ高松に定住した。代表作に法然寺蔵の重要文化財・観世音功徳図屏風がある。享保16年死去した。
森良敬(1809-1880)もり・りょうけい
文化6年生まれ。高松藩絵師。名は鼎。別号に不知斎、石腸がある。森東溟の子。土佐光文に学び、故実画をよくした。明治13年、70歳で死去した。
森直樹(1847-1908)もり・なおき
弘化4年高松生まれ。高松藩絵師。名ははじめ繁太郎、のちに賢良。森良敬の子。幼いころから父に画を学び、のちに住吉廣賢に師事して、一家の画風を伝えた。明治8年の地租改正のときに各村の地図の作成に携わった。明治41年、58歳で死去した。
森東溟(1772頃-1843)もり・とうめい
安永元年頃生まれ。大内郡引田の人。名は良厚または杜賢。別号に文亀がある。森直七の子、森良敬の父、森直樹の祖父。谷文晁に学び、高松藩に仕えた。山水、花鳥、人物を得意とした。天保14年、72歳で死去した。
田岡梅荘(1808頃-1890)たおか・ばいそう
文化5年頃生まれ。綾歌郡羽床村の人。名は雅良、通称は牧太、本姓は松浦で田岡氏の養子となった。別号に精神舎、梅花村荘がある。詩を片山冲堂に学び、画を森東溟に学んだ。のちに梅道人に私淑して、山水をよくした。明治23年、83歳で死去した。
那須賢直(1827頃-1896)なす・けんちょく
文政10年頃生まれ。通称は清助。森良敬に学び、故実画をよくした。和歌もよくした。明治29年、70歳で死去した。
中村良谿(不明-1887頃)なかむら・りょうけい
通称は嘉十郎。別号に白酔、撫松などがある。森良敬および土佐光文に学んだ。晩年は南宗派に倣い山水蘭竹をよくした。明治20年ころに大阪で死去した。
香川(3)-画人伝・INDEX
文献:描かれし美の世界、高松市歴史資料館コレクション展、讃岐画家人物誌