讃岐を代表する画僧・實山も狩野派の画人である。實山は江戸の人で、狩野家の養子となったが、のちに実子が生まれたために僧となり、享保年間は高松の見性寺で住職をつとめ、隠居して自性庵に住んだ。『讃岐国名勝図会』(梶原藍渠・藍水著)によると「徳充(實山)和尚は江戸のひとにて狩野家の風を画く、その頃当国に画人なかりしゆゑその筆跡もっとも多し」とある。また、高松藩主には画を描いたものが多く、特に二代頼常、五代頼恭、八代頼儀、九代頼恕や頼儀の子頼該は、藩絵師である狩野派に筆法を学び、画をよくした。
實山(不明-1751)じつざん
字は徳充。別号に指山、無為翁がある。江戸の人。はじめ狩野家に養子に入ったが、実子が生まれたため僧になって讃岐に来た。享保年間に高松の見性寺の住職をつとめた。のちに隠居して自性庵に住んで画業に専念した。仏像および山水人物を得意とした。梶原藍渠の著書『藍窓茶話』に宝暦明和の頃には讃岐には鶴洲、實山のほかに画をよくする僧侶はいないとある。宝暦元年死去した。
松平頼常(1652-1704)まつだいら・よりつね
承応元年生まれ。高松藩二代藩主。字は舜民。別号に南嶺、南山がある。書画をよくした。宝永元年、53歳で死去した。
松平頼恭(1711-1771)まつだいら・よりたか
正徳元年生まれ。高松藩五代藩主。字は子敬、または子相。別号に白嶽、菅山、亀陰などがある。書画をよくした。明和8年、61歳で死去した。
松平頼儀(1775-1829)まつだいら・よりのり
安永4年生まれ。高松藩八代藩主。字は民則。別号に鳳陽がある。書画をよくした。文政12年、55歳で死去した。
松平頼恕(1798-1842)まつだいら・よりひろ
寛政10年生まれ。高松藩九代藩主。字は容民。別号に南溟がある。書画をよくした。天保13年、45歳で死去した。
香川(2)-画人伝・INDEX
文献:描かれし美の世界、高松市歴史資料館コレクション展、讃岐画家人物誌