画人伝・岩手 日本画家 鷹図

新潟の豪商別邸で板戸絵が発見された旧派の実力者・佐藤紫煙

佐藤紫煙「鷲図」

現在の岩手県一関市に生まれた佐藤紫煙(1873-1939)は、16歳で上京し、水沢出身の菅原竹侶、ついで滝和亭に師事した。日本美術協会、正派同志会、日本画会などで役員や審査員をつとめ、官展には出品せず、絵画共進会や勧業博覧会、ヴェネツィア・ビエンナーレなどの海外展に出品した。花鳥画を得意とし、皇室の御用品も多く手掛けている。

作品は宮内庁三の丸尚蔵館、曹洞宗大本山永平寺、曹洞宗大本山總持寺などに収蔵されているが、近年になり、遺族から一関市博物館に本画を含めた下絵、下図など多数の資料が寄贈され、平成20年(2008)には、新潟市の旧齋藤家別邸に残る板戸絵などが発見された。

旧齋藤家別邸は、新潟市の市街地中心部に残る大正時代の屋敷で、衆議院議員や貴族院議員もつとめた豪商・齋藤喜十郎が避暑のために建てたものとされる。紫煙の作品は、主屋の三箇所で発見され、いずれも大正8年の作で、得意とする孔雀、鶏、牡丹が桐の引き戸に描かれていた。

紫煙が所属していた日本美術協会の画家は、日本画の革新を目指した「新派」に対し、伝統保守の「旧派」と位置づけられていた。近代美術史においては、横山大観や菱田春草らが属する新派の画家に比べ、旧派の画家に光があてられることは少なかったが、近年になり、旧派の画家たちを再評価する動きも出ている。紫煙に関しても多くの作品が発見されており、今後の研究が期待される。

佐藤紫煙(1873-1939)さとう・しえん
明治6年一関村生まれ。佐藤文蔵の長男。初名は文次郎、9歳で以撒と改名した。別号に紫烟、驪雲山房、関郷、一関山人、一関山房、磐涯、磐崖、磐涯山人、磐崖山人、磐涯釣史などがある。画室は畊華堂(耕華堂)と称した。幼いころから画を好み、郷里の画家・増子南篁に教えを受けた。明治23年、16歳の時に上京して菅原竹侶の門に入り、翌年から滝和亭に入門した。また、山水画を学ぶため衣笠豪谷にも師事した。和亭が老齢になると他に師を求めず、独学で研鑽を積んだ。日本美術協会、正派同志会、日本画会、日本南宗画会、明治絵画会などで役員、審査員をつとめた。昭和14年、65歳で死去した。

岩手(22)-画人伝・INDEX

文献:美術フォーラム21 第14号「日本美術協会の作家 佐藤紫煙」(著者:大衡彩織)、佐藤紫煙 幻の花鳥画 新潟・大正時代の豪商別邸に残る板戸絵




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