盛岡藩重臣の北家に仕えた湯川玉流、玉泉、玉僊の三代も狩野派の絵師として知られている。「湯川系図」によると、湯川家の先祖は、南朝方だった紀州丸山城主の湯川太郎真春で、その子・湯川式部と弟の八兵衛の兄弟が奥州に下り、気仙郡猪川に住み、江刺兵庫頭隆恒に仕えたという。
湯川家初代となった湯川玉流(不明-1808)は、明和2年に分家して江刺家家臣となったが、天明元年に当主の江刺市左衛門恒頭が突然自害したため江刺家は断絶となり、家臣は離散した。その後、明和6年に、玉流は盛岡藩重臣で画道に熱心だった北左衛門継味の客分となり、同家の画道師範をつとめたとされる。江刺家の断絶が天明元年であることから、北家の客分となったのは天明2年以後と思われる。
玉流は北家の知行地があった稗貫郡八幡村(現花巻市石鳥谷町)に一時住み、のちに盛岡城下の川原町に転居した。画法は狩野玉元に学んだとされる。玉元とは幕府表絵師・深川水場狩野家の梅笑師信とみられ、梅笑が越後や奥州を遊歴していた折に絵を学んだと推測されている。
湯川家三代となる湯川玉僊(1812-不明)は、鷹の絵を得意とし、複数の鷹図が確認されている。没年は不明で、子の立造の代に一家は北海道に移住している。
湯川玉流(不明-1808)ゆかわ・ぎょくりゅう
通称は他四郎、和喜(湧)右衛門、字は智景。江刺家家臣の湯川喜平治智福の三男で、明和2年に分家した。狩野玉元に絵を学んだとされる。明和6年北左衛門味継の客分となり、画道師範をつとめた。北家の知行地のある稗貫郡八幡村から盛岡城下川原町に移住した。門人に子の玉泉のほか、盛岡藩表具師の石沢遊鶴、石川林流主景、青山仙流らがいる。文化5年死去した。
湯川玉泉(1775-1816)ゆかわ・ぎょくせん
安永4年生まれ。通称は四郎治、字は智徳。湯川玉流の子。寛政8年南部九兵衛継隆の家臣となる。作品は「四季花鳥人物図屏風」一隻(盛岡市千手院蔵)が残っており、ほかに大坂の大岡春朴著『画巧潜覧』中の「人物筆法」を筆写した「筆法」がある。文化13年、42歳で死去した。
湯川玉僊(1812-不明)ゆかわ・ぎょくせん
文化9年生まれ。湯川玉泉の子。名は智易、通称は和喜右衛門。兵学を小向周右衛門に学び、併せて画道にも出精した。明治時代初期に盛岡から稗貫郡八幡村に移り、明治4年から約1年間第23区郡長(八幡、好地、新堀、八重畑の四ケ村を管轄)をつとめ、以後10年代半ばまで寺子屋の師匠として子どもの教育にあたった。鷹の絵を得意とした。門人に渕沢玉渕、戸来錦嶺らがいる。
文献:盛岡藩の絵師たち~その流れと広がり~、青森県史 文化財編 美術工芸
鷹と生きる 鷹使い・松原英俊の半生 | |
谷山 宏典 | |
山と渓谷社 |