盛岡藩の江戸詰め絵師は麻布一本松狩野家が代々つとめたが、国元の御絵師には、元録国絵図の作成を機に、画才がある藩士やその子弟を江戸に派遣して狩野派を学ばせ、絵師として召し抱えた。その子孫は代々絵師として藩に仕えた。
森五郎右衛門吉道は、元禄年間に表具師に召し抱えられ、元禄10年に国絵図の作成に参加した。正徳4年には、二男の次郎八に家督を譲り隠居したが、以後、代々表具師として藩に仕えた。この表具師・森の3人の子どもが分家し、相次いで絵師として召し抱えられ、それぞれ藤田家、森家、石川家を名乗った。
藤田家初代の永寿(不明-1740)は、森家の旧姓・藤田を名乗った。永寿は、元禄年間に江戸に出て、狩野家宗家の中橋狩野家に入門し、元禄12年に絵師として召し抱えられた。盛岡藩の絵師として唯一人法橋に叙されており、宝永6年の内裏造営で主人の永叔主信に従い絵画制作に参加している。
藤田家二代の永湖(1693-1769)は、森五郎右衛門吉道の子で永寿の甥にあたる。鍛冶橋狩野家二代の狩野探信守政に入門して絵を学び、元文5年に家督を相続した。三代の左吉主休は仕立て師長兵衛の二男で、幼いころから永湖に絵を学んだ弟子で、四代の円泉為訓は、中橋狩野家の狩野英信の弟子とされる。
五代は円寿為禎が継ぎ、六代の祐昌喜一は、はじめ二代永湖と号し、麻布一本松狩野家の休円為信と中橋狩野家の祐清に学んだ。別号に恵迪斎がある。祐昌の長男・寿川為善は父に先立って早世したため、二男の守湖昌山が七代を継ぎ、藤田家は、明治元年に絵師の職を解任されるまで代々続いた。
藤田永寿(不明-1740)ふじた・えいじゅ
名は岸信、通称は宇平治。元禄年間に中橋狩野家の狩野永叔主信の門人となり、永叔主信後見の昌運から絵を学び、元禄12年に盛岡藩絵師に召し抱えられた。宝永3年に加増されて15人扶持となり、このころ法橋に叙された。宝永6年狩野永叔主信とともに内裏造営に参加した。享保15年以降狩野永叔主信家老をつとめ、永寿と名乗った。江戸三谷に住み、盛岡に戻ることはほとんどなかった。元文5年江戸で死去した。
藤田永湖(1693-1769)ふじた・えいこ
元禄6年生まれ。名は守一。盛岡藩の表具師・森元吉の子で、宝永7年伯父にあたる永寿岸信の養子になった。正徳3年江戸で表具師に召しだされ「雪迪」と名乗った。正徳4年江戸詰めの経師をつとめるかたわら、鍛冶橋狩野家の狩野探信守政に入門した。享保14年盛岡に戻り、元文5年養父の跡を継いで家督を相続した。宝暦5年養子の左吉主休に家督を譲って隠居。明治6年、77歳で死去した。
岩手(2)-画人伝・INDEX
文献:盛岡藩の絵師たち~その流れと広がり~、青森県史 文化財編 美術工芸