奥原晴湖(1837-1913)は、古河藩重臣・池田政明の四女として下総国古河城下片町(現在の茨城県古河市)に生まれ、家老の鷹見泉石に学問を学び、藩士の枚田水石に画を学んだ。さらに古名画の模写によって画技を磨き、29歳の時に中央画壇を目指し、関宿藩奥原家の養女となって江戸に出た。江戸では上野摩利支天横丁に住み、「東海晴湖」の雅号で豪快な筆致で南画を描き、木戸孝允や勝海舟ら維新の功労者たちとも親しく交わった。
維新期の時流にのって一世を風靡し、幕末・明治初期における南画隆盛の一翼をになった晴湖だったが、やがて南画が衰退期を迎えると、明治24年、55歳の時に旧古河藩領だった熊谷の上川上に隠棲し、若い頃とは違った精緻な細密画を描くようになった。一生独身を通し、男勝りの性格で奇行の逸話に富む女傑だったと伝わっている。
奥原晴湖(1837-1913)おくはら・せいこ
天保8年下総国古河城下片町生まれ。古河藩重臣・池田繁右衛門政明の四女。幼名は節。家老の鷹見泉石に学問を学ぶとともに、藩士の枚田水石に画を学んだ。29歳の時に奥原家の養女となり、江戸に出て下谷に墨吐烟雲楼と名づけた画塾を開いた。幼名の「セイコ」と中国の画人費晴湖に因み、号を晴湖にした。この頃から多くの文人墨客と交わり、勝海舟、木戸孝允らとも知り会った。明治24年南画の衰退期を迎えると埼玉県熊谷郊外に繍水草堂を建て隠棲し、若い頃とは違った精緻な細密画を描き、多くの傑作を残した。大正2年、77歳で死去した。
茨城(15)-画人伝・INDEX
文献:没後100年記念奥原晴湖展、北関東の文人画、茨城の画人、茨城の美術史