酒井抱一によって江戸に定着した光琳様式は、洗練の度を加えて江戸琳派に発展した。抱一のもとには作画の注文が殺到し、抱一の住居兼画房の「雨華庵」には、早世した一番弟子の鈴木蠣潭の跡を継いだ鈴木其一をはじめ、池田孤邨、田中抱二、守村抱儀、山本素堂ら弟子たちが出入りし、抱一の活動を支えた。
雨華庵には、酒井鶯蒲(1808-1841)が養子として同居しており、抱一に画を学ぶとともにその活動を補佐していた。34歳で没したため作品は少ないが、鈴木其一や池田孤邨に匹敵する画技を修めていたと思われ、抱一没後は雨華庵二世を継いだ。さらに、子がなく早世した鶯蒲のあとは養子となった酒井鶯一(1827-1862)が三世を継いだ。
鶯蒲が雨華庵を継いだのちは、其一や孤邨、抱二たちは、雨華庵を出て独立した画家として活動の場を広げ、抱一の画風を基盤としながら各自の画風を展開させていった。其一のもとでは、実子の鈴木守一をはじめ、市川其融、中野其明、村越其栄らが学び、孤邨のもとでは野澤堤雨らが学ぶなど、孫弟子たちも育ち、江戸琳派はさらなる広まりをみせていった。
明治期になると、雨華庵四世を継いだ酒井道一(1845-1913)が、抱二や堤雨ら琳派の絵師とともに、内国勧業博覧会や絵画共進会、シカゴ万国博覧会などに出品して新しい時代に対応し、一方で抱一の後継者としての意識を持って光琳、抱一の顕彰を積極的に行なった。
道一の実兄・山本光一は、父の山本素堂や外祖父の野崎真一(1821-1899)に江戸琳派の画風を学び、その後北陸に活躍の場を移し、北陸に江戸琳派の画風を伝えた。光一に学んだ富山の石崎光瑤は、その後京都に出て竹内栖鳳に学び、近代花鳥画の名手として活躍した。
雨華庵五世を継いだ酒井唯一(1878-不明)も、江戸琳派の後継者として大正期から戦後にかけて幅広い制作活動を展開していたことが分かっているが、没年も不明で、その活動は昭和前期を最後に途絶えてしまう。
酒井鶯蒲(1808-1841)さかい・おうほ
文化5年江戸生まれ。雨華庵二世。通称は八十丸、名は詮真。別号に伴清、獅現、獅子光などがある。築地本願寺の末寺にあたる市ヶ谷浄栄寺八世・香阪壽徴(雪仙)の二男で、11歳か12歳の時に妙華尼の養子となって雨華庵に入り、酒井抱一に画を学び、抱一没後の雨華庵を継いで酒井姓を名乗った。書をよくし、茶事も好んだ。天保12年、34歳で死去した。
野崎真一(1821-1899)のざき・しんいち
文政4年生まれ。酒井抱一の門人・石垣抱真の長子。名は真一、字は大壽。別号に琳々斎、抱青、方声がある。深川扇橋に住んでいた。官を辞して今戸八幡宮の境内で自ら髷を切り、真一と改めて画業に励んだという。内国勧業博覧会、内国絵画共進会、農商務省博覧会第2回絵画展などに出品しているが作品の行方は定かになっておらず、「抱一上人像」などいつくかの作品が残っているのみである。幕末から明治にかけて琳派の魅力をよく伝えた。明治32年、78歳で死去した。
酒井鶯一(1827-1862)さかい・おういつ
文政10年江戸生まれ。雨華庵三世。名は紹真、字は松皐。別号に叡北、柏庭子などがある。築地善林寺の長子で林丸といい、酒井鶯蒲の甥にあたる。子がなく早世した鶯蒲の養子となり跡を継いだ。文久2年、36歳で死去した。
斎藤一蒲(不明-不明)さいとう・いっぽ
名は尚光、通称は伝兵衛。浅草寺の役人で弁天山に住んでいた。別号に南谷、山樵、無声庵などがある。酒井鶯蒲の弟子と伝わっているが、抱一の弟子の可能性もあると考えられている。娘の葭女が父と同居し画も描いていたという。
酒井道一(1845-1913)さかい・どういつ
弘文2年生まれ。雨華庵四世。山本素堂の二男。山本光一は兄。別号に顕真、光阿、咸愚、美鼓堂がある。其一の外孫とも真一の孫とも伝わっている。酒井鶯一の娘と結婚し、慶応2年雨華庵四世を継いだ。明治26年抱一の没後50年忌の追善展覧会を発起。明治35年光琳派絵画研究会を結成。さらに明治40年には村越向栄、稲垣其達、野澤堤雨とともに四皓会を結成し、光琳系の古画を陳列するなど、明治末期まで各所に伝わる実作品に接し、光琳派の継承に尽力した。大正2年、68歳で死去した。
酒井唯一(1878-不明)さかい・ゆいいつ
明治11年生まれ。雨華庵五世。酒井道一の子。本名は清。父の道一に学び、大正2年の道一没後は雨華庵五世を継いだ。別号に抱祝がある。昭和までの活動は確認できるが、没年は不明。
兵庫(16)-画人伝・INDEX
文献:酒井抱一と江戸琳派の全貌、江戸琳派 花鳥風月をめでる