画人伝・北海道 日本洋画の先覚者 静物画

北海道洋画の黎明期に渡米して洋画を学んだ高橋勝蔵

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静物 高橋勝蔵 宮城県美術館蔵

北海道洋画の黎明期に活躍した洋画家として、高橋勝蔵(1860-1917)がいる。高橋は宮城県亘理町に生まれ、10歳の時に家族とともに北海道に移住した。19歳で上京して日本画を学びながら横浜で輸出向けのハンカチなどの絵付けの仕事をしていたが、その時に知り合った米国人に画技を認められ、25歳の時に雇われて渡米した。しかし、雇い主の事業失敗で職を失い、皿洗いやガラス拭きをしながら苦学してカリフォルニア・デザイン学校に学び、在学中に各種のコンクールで受賞を重ね、首席で卒業、シカゴで開催されたコロンブス・アメリカ発見四百年記念万国博では金賞を受賞した。

帰国後は、東京芝に芝山研究所を開き、翌年の第6回明治美術会に渡米作の油彩画と20数点の水彩画を出品、黒田清輝、久米桂一郎らの渡欧作とともに新鮮な作風が注目された。のちに水彩画の専門画家となる三宅克己は、横山の水彩画を見て「兎に角自分は空気とか、絵の深みとか、遠近の調子の妙味を水彩画で、自由に描き現し得られるものと云う事は、この時に初めて知ったと云って可い位だ」と、米国帰りの横山の奥行きのある表現に感嘆したことを後に回想している。その後、三宅はアメリカ行きを決意し、そのあとも大下藤次郎、丸山晩霞らの渡米が続いた。

しかし、同展の途中から出品した日清戦争に取材した作品は、一般観客に大きな反響を生む一方で、時局迎合だとして批判された。それが原因なのか、以後は明治美術会には出品せず、白馬会創立時の黒田からの誘いも断り、明治美術会解散後に新たに結成された太平洋画会にも加わらなかった。その後は、文展の第3回と第4回に出品したがふるわず、大正初めころには北海道や故郷の宮城県亘理に帰り、求めに応じて日本画などを制作していたという。

高橋勝蔵(1860-1917)
万延元年宮城県亘理郡亘理町生まれ。明治4年に藩主・伊達邦成の開拓団に加わり一家をあげて北海道西紋別村に移住した。明治8年北海道開拓使仮学校の電信技術修業生として上京し2年間学び、西南戦争に出征後は、郷里の製糖会社で働いた。明治12年日本画家を志して無断出奔して上京、巡査などをつとめながら日本画を学び、やがて横浜で輸出向けのハンカチなどの絵付けに従事した。明治18年、25歳の時に米国人のチャールズ・フレッチャーに画技を認められ、雇われて渡米するが、雇主の事業失敗で貧窮に陥り、皿洗い、ガラス拭きをしながらカリフォルニア・デザイン学校に入学、マセウス、ジュリエン、エーランドらに西洋画を学んだ。在学中は、サンフランシスコやサクラメントの絵画コンクールで受賞を重ね、明治24年同校を首席で卒業、金牌金賞を受けた。同校のマーチン幹事から仏国留学を勧められ、珍田総領事を通じて官費留学について交渉するが実現しなかった。明治26年建築家サミエル・ニュートンの助力でシカゴに移り、ヘンリー・ゲーツ、ソッスマン、ランデスらについて劇場背景画を研究した。また、シカゴで開催されたコロンブス・アメリカ発見四百年記念万国博で一等金賞を受賞した。帰国後は、東京芝に芝山研究所を開き後進を指導、芝山と号した。翌年第6回明治美術会に渡米作の油彩画と20数点の水彩画を出品、黒田清輝、久米桂一郎らの渡欧作とともに新鮮な作風が注目された。明治美術会解散後、新たに結成された太平洋画会に加わらず、川村清雄、二世五姓田芳柳らの巴会に参加した。文展の第3回と第4回に出品したがふるわず、大正元年から北海道や郷里亘理に帰り、求めに応じて日本画などを制作した。大正5年日本水彩画沿革展に旧作が出品されたが、翌大正16年、57歳で死去した。

文献:太平洋を越えた日本の画家たち、函館-東京-札幌 明治の洋画、北海道美術あらかると、北海道美術史

アメリカの水彩アート
グラフィック社







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