隆盛を極めた東三河の南画だが、明治中期をひとつのピークに、やがて衰退していく。閉塞した郷土画壇を去り、京都や東京の画壇に活路を見出そうとする次代の画家たちも出てきた。菊池芳文に師事した疋田芳沼、川村曼舟に学んだ広本進や尾崎聖峰らが京都画壇で活躍。上京して学んだ画家としては、古くは稲田文笠、長尾華陽、鈴木拳山がいるが、その流れを引き継いだのが小笠原華文、白井烟嵓であり、さらに次の世代としては遠山唯一、鵜飼節夫、村松乙彦らがあげられる。
戦後になると、この地からは日展の異端児・中村正義を筆頭に、パンリアル協会の星野真吾、創画会の平川敏夫、大森運夫、高畑郁子ら個性的な日本画家たちが出てくる。
時代の趨勢とともに衰退していった東三河の南画だが、小華らが築いた南画の隆盛があったからこそ、その熱が時代を越えてこの地に伝わり、独自の世界を展開する異色の日本画家たちを輩出することになったのだろう。
疋田芳沼(1878-1934)ひきた・ほうしょう
明治11年渥美郡松葉町生まれ。疋田熊次の二男。幼名は熊太郎、名は熊吉。実家は吉田藩士だったが、維新後の飲食店経営がふるわず、農業に転じた。小学校卒業後、八町の有田写真館に奉公したが、東京に移転したため実家に帰る。15歳の時に横浜で陶器業を営んでいた豊橋出身の亀田某に見いだされ、横浜で陶画を修得した。その後の3年間は陶画を本業とするかたわら東京で日本画を学んだ。その後京都に移り、田中月耕に学んだのち、同門の菊池芳文に師事した。明治40年、第1回文展に初入選し、以後文展・帝展に出品した。東三河地方の画家としては最初期に文展で活躍した。安久美神戸神明社に大額が残っている。昭和9年に京都で死去した。
尾崎聖峰(1892-1926)おざき・せいほう
明治25年宝飯郡神ノ郷村生まれ。名は市郎。県立岡崎中学校を卒業後、上京して四條派の畑仙齢に学ぶが、病気のため帰郷。大正5年、京都の川村曼舟に師事し、翌年明治絵画会第7回絵画展覧会にが入選。郷里の神ノ郷村にやが残っている。大正15年死去した。
小笠原華文(1876-1924)おがさわら・かぶん
明治11年渥美郡赤羽根村生まれ。眞宗光明寺住職・小笠原暉山の二男。幼い頃から鏑木華国に師事、のちに名古屋の三浦石斎、織田杏斎について文晁系南画を修めた。この頃、田原の西光寺に滞在し、多くの作品を残している。大正5年頃に上京し、荒木十畝に師事して「読画会」に入門した。帝国絵画共進会や中央南宗画会などに出品し、将来を嘱望されたが、大正13年豊橋に滞在中に47歳で死去した。
高柳淳彦(1898-1957)たかやなぎ・あつひこ
明治31年渥美郡老津村生まれ。名は淳。大正6年に豊橋中学校を卒業し上京、同9年に東京美術学校に入学し、松岡映丘に師事した。当時の課題制作が東京芸術大学に残されている。大正15年に卒業し、高田装束店につとめた。昭和7年に第13回帝展に初入選。目黒雅叙園に作品が残されている。昭和32年、58歳で東京で死去した。
鵜飼節夫(1902-1983)うかい・せつお
明治35年渥美郡野田村生まれ。日本美術学校卒業後、はじめ小茂田青樹に師事したが、のちに堅山南風の門に入る。昭和5年、第17回日本美術院展に初入選、以後院展に出品し、昭和53年に日本美術院特待となる。郷里の野田町の公民館や中学校に作品が残っている。昭和58年、東京で死去した。
遠山唯一(1907-1959)とおやま・ただいち
明治40年北設楽郡田口町生まれ。名も唯一。上京して松林桂月に師事、山水、花鳥を得意とした。帝展・日展に11回入選、白壽賞を受賞した。昭和34年、52歳で死去した。
村松乙彦(1912-1983)むらまつ・おとひこ
大正元年北設楽郡下津具村生まれ。浜松中学卒業後に日本美術学校を卒業。児玉希望に師事。昭和58年、71歳で死去した。
東三河(10)-画人伝・INDEX
文献:東三画人伝、東三河の日本画家たち