福岡藩の御用絵師はすべて狩野派で、尾形家、衣笠家、上田家の3家が代々世襲で家督を継いだ。他にも、熊本氏、小森氏、佐伯氏、笠間氏など一代限りまたは随時に抱えられたと思われる絵師も少なくない。最も高禄だったのが尾形家で、その中で特に優れた画技を持った画家とされるのが、2代守義と3代守房である。二人はともに狩野探幽の門人で、2代守義は探幽門下四天王のひとりと称されるほどの技量を誇っていた。3代守房は兄弟子である守義に見込まれ、尾形家の養子となって家督を継ぎ、のちに一代限りの狩野姓を許され「狩野友元」と名乗った。尾形家で唯一法橋にも叙されている。3代守房の門人には狩野派画学の入門書ともいうべき『画筌』を著した林守篤がおり、ほかには風間花車堂、小森守春、大田守章、上林房峯、中島守住、三隅房安らの名前が『筑前名家人物志』にあるが、経歴は多くは伝わっていない。
小方(尾形)守房〔狩野友元〕(不明-1732)おがた・もりふさ
下野国宇都宮生まれ。福岡藩御用絵師尾形家3代。狩野探幽に師事した。そこで同門の先輩であり、探幽門下の四天王のひとりと謳われた小方守義に望まれて養子となり、のちに尾形家の家督を継いだ。旧姓は野中。その後、狩野宗家中橋家の狩野永叔の門に入り直し、宝永6年頃に一代限りの狩野姓を許され、信の一字を拝領して狩野幽元(友元)重信を名乗ることとなった。また、尾形家の絵師ではただひとり法橋に叙せられている。享保17年死去した。
小方(尾形)守義(1643-1682)おがた・もりよし
寛永20年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家2代。小方仲由の子。通称は藤助、または又兵衛。別号に柳園子がある。君主の命により狩野探幽に師事した。久隅守景、桃田柳栄、神足守周と並んで探幽門下の四天王と称された。修業時代は牛之助と名乗り、寛文6年頃に師探幽守信の一字を拝領して牛之助守義と名乗りはじめた。寛文9年の父の死去により家督を相続し、牛之助を仁兵衛に改め、仁兵衛守義と名乗った。天和2年、40歳で死去した。
小方(尾形)仲由(不明-1669)おがた・ちゅうゆう
福岡藩御用絵師尾形家の初代。名は仁兵衛。はじめ雲谷派を学び、のちに狩野探幽の門に入った。晩年は剃髪し全白と号した。寛文9年死去した。
小方(尾形)守等(1695-1772)おがた・もりとし
元禄8年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家4代。小方守房の子。名ははじめ彦七、享保16年に家督を相続して仁兵衛に改めた。この頃から父の一字をもらい「守等」と称したと思われる。別号に一角などがある。「筑前国産物絵図帳」に公務として産物の写生画を描いた。明和9年、78歳で死去した。
小方(尾形)守厚(1721-1781)おがた・もりあつ
享保6年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家5代。福岡藩士・花房久氏左衛門の子。別号に鶴隣斎がある。10歳前後で尾形家に入門したと思われ、遅くとも寛保2年からは師の一字を許され「守厚」を名乗ったとみられる。翌年から修業のため江戸に滞在し、狩野家鍛冶橋家で学んだようで、探幽作品の模写が多く残っている。延享3年小方守等の養子となった。画技は後に「画墨色ウルハシク妙手ナリ」と評されるほどで、寛延4年、義父の退隠により守厚が家督を継いで以来、尾形家はかつてないほど多数の門人を迎えたという。天明元年、61歳で死去した。
福岡(2)-画人伝・INDEX
文献:御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム、狩野派と福岡展、福岡県日本画 古今画人名鑑、筑前名家人物志