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常に津軽を意識して新しい日本画の創造を追求した工藤甲人

工藤甲人「冬ともえ」弘前市立博物館蔵

岡倉天心らが提唱した国粋主義的思潮のもと、大きく発展した「日本画」だったが、第二次世界大戦後に、欧米から次々と芸術新思潮が移入されるようになり、旧来の日本画では世界に通用する表現とはなりえないとして「日本画滅亡論」まで唱えられるようになった。

そんななか、昭和23年に「世界性に立脚する日本絵画の創造」を期して、創造美術が結成された。創造美術は、その2年後に新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となり、昭和49年には「創画会」として独立するが、一貫して標榜していたのは新しい日本画の創造であり、その流れのなかで活躍したのが、弘前市出身の工藤甲人(1915-2011)である。

工藤甲人は、弘前市の農家の二男として生まれ、19歳で上京して青果市場や新聞配達店で働き、20歳で川端画学校日本画科に入学した。同校に通いながら世田谷の友禅屋にもつとめ、下描きの仕事で、花、鳥、静物など物の形を的確にとらえる技術を身につけた。同級生には宇佐美省吾や上田臥牛らがいたが、甲人が最も親しくつきあい、影響を受けたのは、中国戦線に出征し27歳で戦死した西村勇だった。

西村は西洋美術に傾倒しており、甲人は西村との共同生活のなかで、当時の欧米の美術について語りあい、シュルレアリスムの世界に興味を持つようになった。この頃、吉岡堅二、福田豊四郎らが中心となって開催していた新美術人協会展に出品し受賞している。新美術人協会は、山樹社、新日本画研究会の流れを汲む日本画の革新的団体で、当時の官展の風潮に不満を持つ若い画家たちをひきつけていた。

この出品をきっかけに、甲人は福田豊四郎に指導を受けるようになり、日本画院や新美術人協会展に入選を果たすが、戦争のために画業を中断して出征。終戦とともに復員して、故郷津軽で農作業をしながら創作を再開していたところ、福田豊四郎の誘いを受けて創造美術に参加。その後は、創造美術、新制作協会日本画部、そして創画会を舞台に作品を発表、常に故郷の津軽を意識しながら、心の中に生起するさまざまな心象を表現した幻想的な画風を確立していった。

工藤甲人(1915-2011)くどう・こうじん
大正4年弘前市生まれ。昭和9年上京し、昭和10年川端画学校日本画科入学。昭和14年第1回日本画院展、第2回美術人協会展入選。この頃福田豊四郎の研究会に出席。昭和16年前年よりの召集解除となり上京。第4回新美術人協会展に出品。昭和17年第4回日本画院展に出品。再び応召される。昭和25年再び制作活動に入り、創造美術に出品。昭和26年に創造美術が新制作派協会と合流した新制作協会日本画部で新作家賞を受賞。以後新制作展で受賞を重ねた。昭和63年芸術選奨文部大臣賞受賞。平成4年毎日芸術賞受賞。平成8年弘前市名誉市民となった。平成23年、96歳で死去した。

青森(32)-画人伝・INDEX

文献:画業50年工藤甲人展-夢幻の彼方から、青森県史 文化財編 美術工芸、青森県史叢書・近現代の美術家、青森県近代日本画のあゆみ展




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