幕末から明治にかけて全国を放浪した画人・蓑虫山人(1836-1900)は、美濃国(現在の岐阜県)に生まれ、14歳で故郷を出て全国を歩き、各地に足跡を残している。旅先では絵を描き、古遺物を収集し、多くの文人や画人たちと交遊した。自らを「蓑虫」と称したのは、折りたたみ式の寝幌を背負い、その中に日常品を入れて歩く姿がミノムシを思わせることと、出身の美濃国をかけてのことだという。各地で収集した古遺物を展示する博物館を故郷に建設する夢を抱いていたが、実現することなく、65歳の時に名古屋で没した。
青森県を訪れたのは明治11年の秋頃で、明治20年まで滞在している。滞在中は県内各地を訪れ、明治12年には弘前の画人・平尾魯仙を訪ね、その後、国学者・下沢保躬を訪ね、青森各地の知識人、文化人たちの紹介を受けている。各地を巡った日々の様子は「山人写画」に描かれており、その絵は興味あるものや古遺物を巨大に描くなど、誇張もあるが、実際に蓑虫山人が目にしたものを記録しており、当時の様子を知るうえで貴重な資料になっている。
「山人写画」のうち「東津軽郡蟹田において野宿」(掲載作品)では、野宿する蓑虫山人と蟹田から眺めた陸奥湾に浮かぶ漁火、そして低空を流れる彗星が描かれている。右上に記載されている「明治15年10月20日」は、実際にグレートセプテンバーコメットと呼ばれる巨大彗星が確認された日であり、錦絵にも描かれ、国内からもよく見えたことが知られている。
平成20年に青森県立郷土館で開催された展覧会「蓑虫山人と青森」の図録によると、青森でこの彗星が見えたかどうかを検証しており、「天文シミュミレーションソフトステラナビゲータver.8に同彗星の軌道データを読み込み、場所を蟹田観瀾山に設定し、再現すると東方低空にグレートセプテンバーコメットが現れた」と記され「絵日記は実体験に基づいた記録である」と結論付けている。
蓑虫山人(1836-1900)みのぬし・さんじん
天保7年安八郡結村生まれ。本名は土岐源吾。別号に蓑虫仙人、三府七十六県庵主、六十六庵主などがある。家祖光績は土岐光親(頼芸の弟)の四男で天文19年より結村に住んだ。土岐正鑑の妾「仲」の子で、家が没落して家族四散し、源吾は諸国を流浪して先々で画を描いた。故郷に帰らず、明治33年名古屋市矢田の長母寺において、65歳で客死した。長母寺に多くの作品が残っている。
青森(16)-画人伝・INDEX
文献:蓑虫山人と青森