金沢秀之助(1894-1967)は横手市に生まれ、上京して東京美術学校西洋画科に入学、卒業後は渡仏しパリのアカデミーに学んだ。大正13年に帰国したが、翌年の父の死により帰郷を余儀なくされ、昭和2年に再上京するまで、横手高等女学校の講師をつとめた。この間、横手郷土史研究に携わり、中山人形復活に尽力した。
昭和7年帝展に初入選し、以後没年まで日展に出品した。昭和22年の日展出品作は、アメリカ人批評家ドナルド・リッチに賞賛され、その後も意欲作を出品、昭和32年日展審査員となるが、同年脳血栓で倒れ、以後「左筆」となり、このころから作風は抽象傾向を示すようになった。
長年にわたり横手市の郷土史編さんに尽力し、また、昭和37年頃からはカンディンスキーなどの絵画論研究、翻訳にも取り組んだ。また、大山順造の遺稿集「むくろ抄」を発行、千葉館山の青木繁記念碑建立にも尽力した。
金沢秀之助(1894-1967)かなざわ・ひでのすけ
明治27年横手市生まれ。大正9年東京美術学校西洋画科卒業。大正11年渡仏し、パリのアカデミー・ランソンに学んだ。在仏中はキュビスムの影響を受け、大正13年に帰国。大正15年二科展初入選。昭和7年帝展に初入選し、以後没年まで日展に出品した。昭和10年に6ケ月間台湾にスケッチ旅行。昭和17年から翌年まで従軍画家としてニューギニア、ジャワに渡った。昭和26年東京美術学校の同級生の中村研一の勧めで光風会に参加し、以後継続して出品した。昭和27年日展で「肉屋の店」が特選。昭和28年光風会会員、翌年同会審査員。昭和32年日展審査員となるが、同年脳血栓で倒れた。昭和33年、長年にわたる横手市郷土史編さんに尽力した功績などにより、横手市文化功労者表彰を受けた。昭和35年日展と光風会の仲間とで「十柯会」を結成。昭和37年頃からは絵画論研究、翻訳にも取り組んだ。昭和42年、72歳で死去した。
秋田(30)-画人伝・INDEX
文献:横手・平鹿の美術 十五人集、1900年代秋田の洋画家たち、秋田県立近代美術館所蔵作品図録 1994、秋田市立千秋美術館所蔵作品選、秋田書画人伝