
狩野光信「四季花木図襖」(部分)重文 園城寺勧学院
狩野光信(1561or1565-1608)は、狩野永徳の長男として京都に生まれた。生年には異説もあるが、永禄8年(1565)生まれだとすると、12歳の時に父とともに安土城の障壁画制作に携わり、17歳の時に父とともに織田信長から安土城完成の恩賞を受けた。父の急逝後は26歳で家督を継ぎ、父・永徳とは対照的な繊細優美な作風を確立した。
永徳の豪壮な画風を受け継がなかったこともあり、光信に対する評価はけっして高いものではなく、江戸初期の儒者・林羅山は、狩野派絵師のなかで「光信独リ拙シ」と酷評し、狩野派の絵師・木村探元も「親に似ず至極の下手」と批判しており、後世においてもその評価は芳しくなかった。
しかし、大正14年、園城寺勧学院の床の間壁裏側から寛政11年の修理銘が発見され、この客殿が豊臣秀頼の命により造営され、障壁画である「四季花木図襖」(掲載作品)は光信の作であることが判明した。これを機に光信に対する再評価の気運が高まり、本格的な光信研究はここから始まったといえる。
光信が描く「四季花木図襖」における桜は、周囲を圧倒して咲き誇るでもなく、他の樹木にまじって慎ましく咲いている。複雑に交叉する金雲を効果的に使った画面構成は、見るものの視線を奥へ奥へと誘う複雑なもので、清々しさのなかに相当な力量を感じさせるものである。
狩野光信(1561or1565-1608)かのう・みつのぶ
永禄8年京都生まれ(永禄4年生まれという説もある)。狩野永徳の長男。幼名は四郎次郎、源四郎、のちに右京進、右京、右京亮など。父とともに織田信長の安土城の障壁画を描いた。豊臣秀吉に仕えたのち、徳川家康にも仕えた。徳川家の命で江戸に下向し、その帰途の慶長13年、桑名で病のため死去した。
京都(55)-画人伝・INDEX
文献:日本絵画名作101選、狩野永徳と京狩野、狩野派決定版、日本の美術14桃山の障壁画、原色日本の美術27、日本美術絵画全集・第9巻







