文政・天保の頃、米沢藩御用絵師の家系・目賀多家の分家である南目賀多家から出た目賀多雲川信済は、南・北目賀多家を通じてもっとも傑出した名人と伝えられている。瘦せ肉の体格ながらも、豪放にして酒を愛し、雪舟の画風を慕い、興趣が湧かなければ筆を持つことはなく、好んで龍を描き、壬辰の日に筆をふるい、雨沛然として雷鳴轟く日を選んで龍に眼を入れたという。
目賀多雲川信済(1786-1847)めかた・うんせん・のぶずみ
天明6年米沢生まれ。小納戸矢嶋欽右衛門長寄の三男。目賀多雲川信與の養子となり、雲川と号した。初号は雲林、別号に幽石、適意斎などがある。享和元年養父の隠居により家督を相続した。享和4年上杉鷹山治席画。享和7年預所絵画仕立のほか後年、駿河守、淡路守斉定絵事勤任。文政2年狩野探信守道に師事。弘化4年、62歳で死去した。
山形(4)-画人伝・INDEX
文献:米沢ゆかりの絵師たち、米沢市史第3巻(近世編2)、郷土日本画の流れ展