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江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま東北地方を探索中。

画人伝・山形 中国故事

目賀多雲川守息に学び人物花鳥の名手として名を馳せた小田切寒松軒

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小田切寒松軒「草蘆三顧図」三面(部分)
『三国志』のなかで、劉備が関羽、張飛を引き連れて諸葛孔明の庵を3度訪れ、礼を尽くして軍師として迎え入れたという「三顧の礼」の由来となった場面を描いている。

江戸時代の米沢の絵画界は、藩御用絵師の目賀多家を中心に展開し、米沢藩士のなかには絵画の家系でなくとも絵を学んだものもいた。法泉寺の庭園を修復したことでも知られる小田切寒松軒は、幼くして目賀多雲川守息の門に入り、のちに門下筆頭と讃えられ、人物花鳥の名手として名を馳せた。

米沢に生まれた小田切寒松軒は、元禄13年四代藩主上杉綱憲の小姓となり、宝永元年の綱憲没後は仲之間組に入った。享保4年本家が他藩に出奔したことに伴い、分家の寒松軒も改易され、城西の古志田村に流されたが、12年後の享保16年に藩主宗憲の生母祥寿院死去に伴う大赦によって苗字を回復し与板組に入った。

享保19年に44歳で隠居した後は、寒松軒と号して風月を楽しみ、存分に筆を振るった。法泉寺の庭園を修復したのも隠居後のことと思われる。門人に左近司惟春、香坂松洲らがいる。

小田切寒松軒(1690?-1774)おだぎり・かんしょうけん
元禄3年頃米沢生まれ。名は弥総、諱は随親。淵龍と号し、隠居後寒松軒と称した。享保19年に44歳で隠居。人物花鳥画に長じ、法泉寺の庭園の修復を手掛けたとされる。安永3年、85歳で死去した。

左近司惟春(不明-不明)さこんじ・これはる
通称は周助。別号に文亀斎がある。与板組徳間与兵衛の弟で寛政年間に馬廻組・左近司郡四郎の養子となった。目賀多家、小田切寒松軒、加藤文麗に師事した。文政4年に隠居した。

香坂松洲(不明-不明)こうさか・しょうしゅう
小田切寒松軒に師事した。日光東照宮廊堂の襖絵修理に参加した。

山形(3)-ネット検索で出てこない画家

文献:米沢ゆかりの絵師たち、米沢市史第3巻(近世編2)、郷土日本画の流れ展







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