紀州三大南画家のひとり、桑山玉洲(1746-1799)は、若くして実業家として成功し、生涯を紀伊の地で過ごした。事業のからわら画法を研究し、理想郷を描いた山水画や真景図など多くの作品を残している。また、池大雅、木村兼葭堂らと交流し、独自の画論も展開している。のちに形骸化していく狩野派のシステムを『嗣幹画論』で早くから指摘していたり、当時異端とされていた池大雅の本質を見抜き『絵事鄙言』で高く評価するなど、近世絵画史研究の上でも重要な画論を多く残している。
桑山玉洲(1746-1799)くわやま・ぎょくしゅう
延享2年紀伊和歌浦生まれ。幼名は新太郎、ついで茂平治(茂平次)、のちに左内と改めた。名は嗣燦、字は明夫。文爵、継昇、嗣幹、嗣杵、嗣粲、嗣燦、鶴麓などと称し、別号に明光居士、清瀲子がある。住居は、鶴跡園、蘆蔭舎、阿雪堂、聴雨堂、勤耕舎、幽興堂などと称した。父・桑山昌澄は廻船業・両替商を営んでいた。父の没後に家業を継いで、新田開発事業にも着手するなど、若くして実業家としての手腕を発揮する。
幼い頃から独学で書画の研究に励み、20代の頃には本格的に画を学ぼうと、江戸の諸名家を訪ねている。その時に書かれたものと思われる『嗣幹画論』によると、狩野派の画家に積極的にコンタクトをとったが、本格的に画を学ぼうと上京した玉洲は実情に失望したらしい。
2006年に和歌山市立博物館で開催された「桑山玉洲展」の図録から引用すると、『嗣幹画論』で玉洲は「狩野派は探幽の上を学ばないため、百年余が経った今に及んでも探幽と肩を並べる画家は一人も出ていない。絵を学ぼうとするものはまず先生につかなければステップアップできず、能力あるものでもその力を発揮できない。これは家というものに覆われているためである」と述べ、のちに形骸化していく狩野派のシステム上の問題を指摘している。
ほぼ独学で画を学んだ玉洲の作品からは、ひとつの型に収まるのではなく、常に創意を盛り込もうとしていたことがうかがえる。玉洲の画風がひとつの方向性を見出していくのは、池大雅、木村兼葭堂、高芙蓉らと交流を始めた30歳頃からで、それは理想郷を描いた山水画であり、実在の景色を描く「真景図」だった。
真景図では、地元の和歌浦、富士、熊野などを描いているが、なかでも寛政5年、50歳の時に紀伊藩医の今井元方、名草郡奉行の小田仲卿、画友の野呂介石とともに行った南紀熊野への遊歴は、玉洲にとって貴重な体験で、これをもとに描かれた真景図や、和歌浦を題材にした作品群が玉洲芸術のひとつの到達点とされている。寛政11年、54歳で死去した。『嗣幹画論』『桑氏扇譜考』『玉洲画趣』『画苑鄙言』など多くの画論を残しており、『絵事鄙言』は玉洲の没後、木村蒹葭堂によって刊行された。
桑山曦亭(1774-1806)くわやま・ぎょうてい
安永3年紀伊和歌浦生まれ。名は奎、字は大圭、通称は茂平次。桑山玉洲の子。のちに朝日村に引っ越した。農業のかたわら詩を作り、『南紀風雅集』に掲載されている。文化3年、33歳で死去した。
和歌山(7)-画人伝・INDEX