木村立嶽(1825-1890)は、越中国中新川郡富山南田丁(現在の富山市南田町)に生まれた。父親は仏壇の指物師・宮大工を生業にしていた。6歳頃から藩絵師に画技の手ほどきを受け、12歳頃に第10代富山藩主・前田利保の推薦により江戸に出て木挽町狩野家の画所に入り、狩野伊川院栄信に師事した。
24歳までの12年間を木挽町画所で学んだが、その間、21歳の時に藩命により一時国元に戻り、第11代藩主・前田利友が父利保のために建築した隠居所の殿中に襖絵などを描く仕事に従事した。藩主利友はその画技を高く評価し、地元の名嶽「立山」に因んで「立嶽」の号を与えたという。
嘉永4年、父親が死去したため家督を継ぐべく木挽町画所を辞して帰郷。富山では藩主に絵を指南し、そのかたわら絵画制作も精力的に行ない、山下守胤らと『本草通串証図』の下絵制作にも参加した。
万延元年、幕命により単身江戸に戻り、木挽町画所に復帰して狩野勝川院雅信に師事した。師の勝川院雅信は、焼失後の江戸城本丸障壁画の制作をまかされており、立嶽も同門の狩野芳崖、橋本雅邦らとともに杉戸絵などを描く仕事に携わり、芳崖、雅邦、狩野勝玉とともに「勝川院の四天王」と称されるようになった。
慶応4年、徳川家相続家達が新政府によって駿府に移封され、勝川院雅信はこれに同行して余生を駿府で過ごすことになったため、立嶽が勝川院の名代で奈良の神武天皇陵補修に従事し、その後も奈良社寺宝物取調掛として調査を行なった。
明治8年、内務省図書寮に出仕し画図掛を拝命し、神武天皇御陵図の制作などに携わったが、その一方で明治維新後に御用絵師の身分をなくしたため生活は困窮し、狩野芳崖とともに精工社の陶器画や漆器の下絵を描いて糊口をしのいだ時期もあった。明治14年からは内国勧業博覧会などに出品しはじめ、数々の賞も受賞した。
明治15年、農商務省勧農局から植物写生掛を拝命し、日本中の産物の写生図を描いた。この頃、フェノロサと出会い、明治17年結成された鑑画会に主力メンバーとして参加した。新しい日本画の創造運動にも加わり、フェノロサが主唱する光線の法分度の則を最も忠実に実践した画家のひとりとされた。その後も東宮御所や皇居の障壁画を描くなど晩年まで精力的に活動した。
木村立嶽(1825-1890)きむら・りゅうがく
文政8年越中国中新川郡富山南田丁(現在の富山市南田町)生まれ。名は雅経。幼名は専之助、または仙之助。天保8年、12歳の時に富山藩主・前田利保の薦めで上京し、狩野伊川院栄信に学んだ。利保の能舞台築造に際し、松羽目を描いた功で藩士に列し「立嶽」の号を賜り、山下守胤らとともに「本草通串證図」の下絵を描いた。安政7年再度江戸に上り、狩野勝川院雅信に従い江戸城本丸障壁画の制作に従事した。維新後も絵画共進会などで受賞を重ね、鑑画会にも出品した。明治17年東宮御所、明治22年皇居の障壁画を描いた。明治23年、64歳で死去した。
木村立雲(1873-1905)きむら・りゅううん
明治6年富山生まれ。名は良吉。木村立嶽の三男。明治25年東京美術学校特別課程を卒業し、翌年新潟県尋常中学校の教員となり、のちに静岡県師範学校に赴任した。日本絵画協会連合絵画共進会には第7回、9回、12回と出品した。図画教育界で活躍したが在職のまま日露戦争に召集され、明治38年、31歳で戦死した。
富山(07)-画人伝・INDEX
文献:日本美術院百年史1巻上、越中百年美術回顧展、越中の美と心、郷土の日本画家たち(富山県立近代美術館)