画人伝・徳島 円山四条派 動物画 猿図

阿波の円山・四条派

松浦春挙「猿猴図」

松浦春挙「猿猴図」

藩の御用絵師は狩野派にしても住吉派にしても江戸の系統の画派だったが、町絵師の大部分は、南画家を除くと京都の四条派が多くを占めていた。森狙仙に学び、のちに円山応挙に師事した松浦春挙(1771-1847)、柴田義董に師事した大原呑舟(1792-1857)と安藤止堂(不明-不明)、松村呉春に師事した沢山巾逸(1808-1869)、多くの門人を育てた清久南畝(不明-1876)らがいる。

松浦春挙(1771-1847)まつうら・しゅんきょ
明和8年生まれ。幼名は亀八、のちに宇吉。通称は猪三郎。名は依景、のちに重吉。別号に三桃、舜挙がある。小松島市の藍商に家に生まれた。松浦家第七代。幼いころから画を好み、家が裕福だったため再三京都に出て、画を森狙仙に学び、のちに円山応挙に師事した。師の一字をとって「春挙」と号した。動物に巧みで、特に孔雀にすぐれていた。小松島市西野嘉衛門家所蔵の「孔雀西王母」三幅対はその代表作で、県文化財に指定されている。丈六寺の百川和尚とも親交があり、鶏の衝立を残している。晩年、自分の画室を孔雀堂と称して、孔雀を飼っていた。春挙の孔雀帖には柴野栗山、古賀精里、菅茶山らの賛があり、多彩な人物との交流がうかがえる。『阿波国最近文明史料』(大正4年刊行)に孔雀帖の賛を載せている。弘化4年、京都に滞在中に77歳で死去した。

松浦桃挙(不明-不明)まつうら・とうきょ
通称は鶴之助。松浦春挙の養子。はじめ春挙に学び、のちに森狙仙に、さらにその子徹山を招いて師事した。

大原呑舟(1792-1857)おおはら・どんしゅう
寛政4年生まれ。名は鯤。別号に鯤崘、崑崙などがある。京都の人。大原呑響の養子。画を柴田義董に学び、山水、人物をよくした。阿波の藍商たちとの交流があり、小松島の藍商たちや志摩利右衛門、秋田忠助、大磯次郎兵衛らの屋敷にも長期滞在し、阿波各地に多くの作品を残している。安政4年、66歳で死去した。

安藤止堂(不明-不明)あんどう・しどう
名は克。初号は松坡、また泉石とも号した。父は藩の銃卒だったが、幼くして父を失い母に養育された。画を好んでいたので母が家を売り京都に上がらせて柴田義董に入門させた。さらに岡本豊彦浜口南涯にも師事した。四条派を学んだが南画風の作品が多い。奇人で常に四方に周遊した。からわら詩を好み、自分の意にまかせて揮毫し、ひとつの風格をなしていた。当時世人は彼の画のよさがわからず求めるものがまれであった。ある翁が「君の画は前の画法ならば世人が皆好んだ。彩色すればよい画になるから貧乏しなくてもよいのではないか」と言った。止堂は「自分の好きなことをしているので人のために描いているのではない」と答え、自分はどの流派にも属さず「止堂流である」と言ったという。一時、徳島慈光寺に寄寓して泥塑人馬を作って貧乏生活をしていたが、のちに町に出て玩具を商うかたわら揮毫していた。晩年南方の田舎に移り、明治15、6年に死去した。海部郡に作品が多く残っていることから、晩年は海部郡にいたと推測される。

沢山巾逸(1808-1869)さわやま・きんいつ
文化5年生まれ。名は嘉兵衛。別号に無適斎がある。勝浦郡中郷の薬商で、屋号を竜香園と称した。松村呉春に師事して四条派を学んだ。明治2年、62歳で死去した。

清久南畝(不明-1876)きよひさ・なんぽ
名は益郎宗久。佐古大裏町の人。藩の小奉行・清久貞兵衛の子。四条派の画人で門人が多い。明治9年死去。

吉永藍畦(1832-1892)よしなが・らんけい
天保3年生まれ。名は敦太郎。徳島佐古の人。清久南畝について四条派を学び、のちに大原呑舟についた。明治22年、多田藍香が徳島紺屋町で市立徳島絵画学校を開いた時に教授をつとめた。明治25年、61歳で死去した。

仁木凌霄(1832-1911)にき・りょうしょう
天保3年生まれ。本姓は森崎。名は万次郎。初号は竹亭。徳島佐古の仁木昭三郎の養子となった。清久南畝について四条派を学び、のちに南画に転じた。明治44年、80歳で死去した。

近藤泰山(1868-1930)こんどう・たいざん
明治元年生まれ。板野郡大山の人。名は智四郎。川端玉章の門人。昭和5年、64歳で死去した。

湊青古(1875-1945)みなと・せいこ
明治7年生まれ。徳島前川の湊清太郎の長男。名は晴喜。徳島佐古台所丁に住み四条派の画をよくした。山本守渕と親交があった。昭和20年、71歳で死去した。

高原雅州(1882-1939)たかはら・がしゅう
明治15年生まれ。名は邦太。徳島矢三口の人。高原一郎の子。深井豊洲の門人。虎の画を得意とした。昭和14年死去。

新居南湖(1887-1926)にいきょ・なんこ
明治20年生まれ。本名は伝。徳島佐古の人。表具材料を商っていたが京都に出て山元春挙に師事、四条派を学んだ。大正15年、40歳で死去した。

徳島(16)画人伝・INDEX

文献:阿波の画人作品集、阿波の画人作品二集、阿波画人名鑑




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