藩の絵師は通常幕府にならって狩野派か住吉派から召し抱えられていたが、11代藩主蜂須賀治和は、儒者であり南画家の鈴木芙蓉とその養子・鳴門を徳島藩御用絵師とした。南画は民間において非常に流行していたが、徳島藩のお抱え絵師となった南画家は鈴木家だけである。芙蓉の主な活動の場は江戸だったが、御用絵師に抱えられた寛政8年、その年の5月5日に江戸を出て、12月17日に江戸に帰るまでの約7ケ月間、国元に在番を命じられ、藩主の参勤交代の阿波入国のお供で阿波に滞在している。この間に藩命により、芙蓉の記念碑的代表作に位置づけられる「鳴門十二勝真景図巻」を描いた。また8月の盆踊り(現在の阿波おどり)を見学し、酒に酔った勢いで描いた「阿波盆踊りの図」(個人蔵)は、阿波おどりを描いた最古の絵画作品として徳島市の文化財に指定されている。
鈴木芙蓉(1752or1749-1816)すずき・ふよう
寛延2年(宝暦2年)信濃国伊那郡北方村生まれ。伊賀良の百姓木下勘平の二男。前半生については不明な点が多く、鈴木家の養子になった経緯も不明。名は雍、字は文煕、別号に老蓮がある。若くして江戸に出て、天明年間に林家に入り儒学を学んだ。ここで元徳島藩儒の柴野栗山と出会い、寛政8年、栗山の紹介により徳島藩御用絵師として招かれることになる。画の師としては池大雅、黒川亀玉に学んだとする資料もあるが、同郷の僧雲室の記述や芙蓉の賛から渡辺湊水・玄対に学んだものと考えられる。画風は、南宗画と北宗画を取り入れた中国絵画だったが、それにあわせて南蘋派、長崎派、琳派、やまと絵、円山四条派も学び、特に文化4年頃には雪舟の作品に傾倒し、室町水墨画も取り入れているなど、さまざまな流派の筆法を取り入れ、折衷画様式ともいえる新興画派の形成に大きな役割を果たした。この画派がその後、谷文晁らによって江戸南画として大流行していくことになる。文化13年、68歳で死去した。→関連:近世の信州を代表する画人・佐竹蓬平と鈴木芙蓉
鈴木小蓮(1779-1803)すずき・しょうれん
安永8年生まれ。芙蓉の実子。名は恭、字は遠耻。幼い頃から読書を好み、経書に通じ、文は三代、両漢、唐宋八家を慕い、詩は漢詩を好み、詩文をよくした。書画にも通じ、江戸より京都に出て皆川淇園に学んだ。しかし京都から帰って間もない享和3年、麻疹にかかり25歳の若さで死去した。父芙蓉はその年に『小蓮残香集』を刊行している。寛政9年には京都東山書会に父とともに作品を出品している。
鈴木鳴門(1787-1840)すずき・めいもん
天明7年那賀郡黒地村生まれ(信州飯田の生まれという説もある)。名清次郎、のちに積、字は一善、通称は源兵衛。別号に淡墨斎がある。生年は不明だが、父と兄直助が徳島城下の中通町で指物屋を営んでいたので、それを手伝っていたが、絵師を志し、江戸に出て芙蓉に師事した。天明年間は茅場町に住んでいたが、芙蓉の子・小蓮が死去したため、文化4年、芙蓉の養子となり、同6年、芙蓉の願いにより家督を相続し、ついで藩の「唐画流御画師」となり、三田の徳島藩邸内に住んだ。天保7年には江戸の八丁堀に住居を構えていたという。天保11年、54歳で死去した。
遠藤萃雅(1789-1821)
寛政元年生まれ。名は乙蔵、石井の遠藤春正の子。春足の弟。鈴木芙蓉、谷文晁に10年学び、各地を遊歴した。文政4年、33歳で死去した。
竹重鳴春(1792-1847)
寛政4年生まれ。名は新之丞、別号に梅窩、栄窟主人がある。鈴木鳴門の門人。弘化4年、56歳で死去した。
梶旗山(不明-不明)
幼名は信次、通称は真悦、名は利長。別号に英山がある。藩士忠次の子。奥坊主、茶道役。画を鈴木芙蓉に学んだ。小原春造の著書『阿波淡路両国物産志』の図譜を、子の英朴と共に完成した。
徳島(5)-画人伝・INDEX
文献:忘れられた文人画家 鈴木芙蓉とその周辺、阿波の近世絵画-画壇をささえた御用絵師たち、阿波画人名鑑