森崎家は、徳島藩蜂須賀家に仕えた狩野派の絵師だったが、森崎桃春・春潮父子の時に、蜂須賀斉昌の意向で住吉派に転向した。その森崎家が伝えてきた粉本類が、徳島県立博物館に「森崎家資料」として収蔵されており、森崎家だけでなく、佐々木家、矢野家、河野家など徳島藩の御用絵師に関する資料が含まれている。森崎家は現在も続いているが、各絵師に関しては不明な点も多いが、森崎春潮(1849-1897)が第2回内国絵画共進会に出品した際の履歴書の写し、同家の永代過去帖、作品などが残っており、そこから各絵師の活動をうかがい知ることができる。
森崎常福(不明-1798)もりさき・じょうふく
徳島沖洲の人。藩船関係の絵師で、森崎家の最も古い存在。森崎春潮の履歴書によると、「四世祖ハ号常福ト學フ狩野派ヲ世々此流ヲ不変」とあり、常福が絵師としての祖であり狩野派に学んだとされている。寛政10年死去。
森崎春旦(不明-1840)もりさき・しゅんたん
名は清九郎。藩の絵師。常福の子。秀応と称した。森崎家資料の中に「花鳥座敷地取」(文化6年)がある。「浪に鷹図」(徳島市立徳島城博物館蔵)には、春旦の落款をいれ「秀応」の印を捺している。天保11年死去。
森崎桃春(1814-1887)もりさき・とうしゅん
文化11年生まれ。名は辰次郎。春旦の子。父・春旦に狩野派の画を学んだが、のちに藩の絵師・守住貫魚について住吉派を学んだ。明治17年の内国絵画共進会に出品。明治20年、74歳で死去した。
森崎春潮(1849-1897)もりさき・しゅんちょう
嘉永2年生まれ。名は東太郎。桃春の子。はじめ父・桃春について狩野派を学んだが、途中で守住貫魚に入門して住吉派を学んだ。藩船参勤図の大作がある。のちにまた狩野派に転じ、明治17年の内国絵画共進会には狩野派として「琴棋書画図」「龍頭観音図」を出品している。明治30年、50歳で死去した。
徳島(4)-画人伝・INDEX
文献:阿波の近世絵画-画壇をささえた御用絵師たち、阿波画人名鑑