元和2年、徳川家康(1543-1616)は駿府(現在の静岡市)で死去し、駿河久能山に葬られた。翌年、二代将軍秀忠によって日光山内に東照社(のちに東照宮)が造営され、家康は神(東照権現)として祀られた。これにより、中世に勝道上人によって開山された日光山は、再び聖地としての輝きを取り戻すことになった。
さらに三代将軍家光は、寛永11年に社殿の総建替え(大造替)を命じ、元和年度の建物の大部分を廃し、莫大な費用と労力をかけて2年後に完成させ、その19年後の承応2年には家光の廟所大猷院が日光山内に造られた。「東照宮御造営帳」によれば、これらの絵画装飾を担当したのは狩野派の絵師たちで、彼らを統率していたのが、狩野派中興の祖と称される狩野探幽だった。
狩野探幽(1602-1674)は、狩野孝信の長男として京都に生まれ、父孝信が徳川家康に召されて江戸に下った際、11歳の時に徳川家康に謁見し、その2年後には秀忠にも謁見している。16歳で徳川幕府の御用絵師となり、江戸鍛冶橋門外に屋敷を拝領して奥絵師・鍛冶橋狩野家を興した。当時京都を本拠地にしていた狩野派の画法に加え、宋の牧谿、可翁、または雪舟の画法を研究し、沈滞気味だった狩野派の勢いを再び盛り上げる中心人物となった。
日光東照宮関連で探幽が描いたものとしては、本社拝殿や家光の廟所大猷院拝殿の壁画、大猷院本殿後堂に掲げられた「釈迦三尊像」、家康の生涯を追った近世絵巻「東照社縁起」などがある。また、家康に深い敬慕の念を抱いていた家光は、家康の夢を見るたびに、その姿を探幽に描かせたといわれ、「東照権現像」(掲載作品)が輪王寺と徳川宗家に伝わっている。これらは俗に「夢の画像」「霊夢像」と称されている。
狩野探幽(1602-1674)かのう・たんゆう
慶長7年京都生まれ。狩野光信の弟孝信の長男。名は守信、幼名は四郎次郎、または采女。寛永15年に出家して探幽、白蓮子と号した。3歳ころから絵筆を握り、父孝信に手ほどきを受けた。11歳の時には駿府に参上して家康に謁見した。17歳の時に父と死別し、弟の尚信、安信とともに、父の兄狩野光信の門人・狩野興以のもとに育った。その前年の元和3年、16歳の時に徳川幕府の御用絵師になり、父孝信が没した後も家督を弟尚信に譲り、江戸鍛冶橋門外に屋敷を拝領して奥絵師鍛冶橋狩野家を興した。二条城修築や江戸城、日光東照宮などの造営において、幕府御用絵師の最高責任者として一門の絵師を統率した。寛文2年61歳の時に、御水尾上皇の肖像を描き、当時の画家として最高の宮内卿法印に叙され「筆峯居士」の印を賜った。延宝2年、73歳で死去した。
栃木(3)-画人伝・INDEX
文献:とちぎ美術探訪、栃木の美術、栃木県歴史人物事典