市川君圭(1736-1803)は、坂田郡醒井村大字醒井(現在の米原市)に生まれた。醒井は中山道の宿場があった宿場町で、加茂神社境内から湧き出る名水「居醒の清水」でも知られている。
君圭が誰に画を学んだかは定かではないが、旅人が往来した宿場町で育っていることから、長逗留していた絵師たちから画法を学んだと思われる。その後、京都に出て中国の元明代の名画を研究し、とくに鶏を得意とし、名人と称されるようになった。
京都で画家としての名声を得た君圭だったが、どのような理由かは明らかになっていないが、伊藤若冲をはじめ、池大雅、与謝蕪村といった大家の贋作の制作に手を染めてしまった。それが露見して君圭の名声は一夜にして地に落ち、知識人のなかには、その行為を嫌悪し、君圭の作品にツバを吐きかけるものもいたという。
岸派の絵師・白井華陽はその著書『画乗要略』のなかで、「(絵を)学ぶ者すべからく君圭をもって、戒となすべし」と記し、絵を志すものは決して君圭の轍を踏んではいけないと戒めるとともに、君圭を強く非難し、その才能を惜しんだ。
京都画壇での居場所をなくした君圭は、失意のうちに故郷に帰り、細々と絵を描いていたが、やがて故郷で没した。長男の君泉も名古屋に出て張月樵に学び絵師として活動していたが、若くして没した。
市川君圭(1736-1803)いちかわ・くんけい
元文元年坂田郡醒井村大字醒井(現在の米原市)生まれ。名は適、字は君圭。別号に眠龍がある。京都で中国の元・明代の名画を研究し、とくに鶏を得意とした。門人に張月樵がいる。享和3年、68歳で死去した。
滋賀(08)-画人伝・INDEX
文献:近江の画人たち、近江の画人