呉春に四条派を学んだ張月樵(1772-1832)は、彦根に生まれ、名古屋に来て活躍した。南画の山田宮常の画才を慕い、四条派系でありながら南画系の画家たちと交流し、合作も多く残している。活躍期は中林竹洞、山本梅逸の若年期にあたり、若い梅逸に画を教えたのも張月樵である。また、各地で障壁画を制作したり、山車の幕の下絵を描くなど、多彩な活動を見せている。大石真虎、貝谷采堂、織田共樵、沼田月斎、横井金谷ら多くの門人がいる。
糠谷蘭汀(不明-1819)かすや・らんてい
知多郡大野の人。名は東四郎。別号に浄秀がある。張月樵の知多巡遊の折りに入門し、南北合法の画法を受け、真野桃蹊の『近世名家画譜』に掲載された。文政2年2月23日死去。
富田古観(不明-1832)とみた・こかん
知多郡古見村の旧家忠左衛門の子。名は道寧、通称は忠兵衛。別号に日月亭がある。幼い頃から画を好み、知多巡遊中の張月樵を招いて画を学んだ。巣見来山に次いで、この地方では名声があったという。天保3年2月16日死去。
大石真虎(1792-1833)おおいし・まとら
寛政4年春日井郡生まれ。名は真虎、通称は衛門七・小門太。別号に樵谷がある。医師の小泉隆助の二男。故あって名古屋に住み、幼い頃から画が巧みで、15歳の時に張月樵に学んだ。のちに江戸に出て故実を研究し、中年になって吉川一渓に仏画を学び、さらに渡辺清の門に入って土佐派を学び、一生の師とした。長崎・厳島に遊び名古屋に帰って画を業とした。『百人一首一友話』『神事行燈』初編の板下絵を描いた。天保4年4月14日、42歳で死去した。
貝谷采堂(1786-1835)かいや・さいどう
天明6年熱田須賀町生まれ。名は善、字は公器、通称は吉兵衛。砂糖商清吉の子。幼い頃から画を好み、はじめ山本蘭亭について浮世絵を学び、のちに張月樵の門に入り南北合法の画をもって藩の絵用達を命じられ士格に列した。熱田神宮年中行事の絵七四図を描いた。天保6年5月5日、52歳で死去した。
寄田九峯(不明-1839)よりた・きゅうほう
尾張藩士。名は保延、通称は清太郎。別号に水竹居がある。張月樵に学び、のちに宮崎きん圃に南宗の画法を受けた。また元明諸家の画を模して金氏画譜を翻刻した。天保10年4月4日死去。
織田共樵(不明-1862)おだ・きょうしょう
張月樵のために薪水の労をとり、月樵のいるところ必ず共樵ありといわれた。使役のかたわら画を学んだ。藩主の命によって船遊びの岐阜提灯の画を描き、また東照宮や東別院対面所の彩色をなした。月樵没後はその子晋斎を指導した。文久2年8月26日死去。
張晋斎(1813-1875)ちょう・しんさい
文化10年生まれ。名は行寛、字は得象、通称は卯之吉。別号に月戴がある。張月樵の長男。画を父に学び、また書を蝸庵に受け、ともに巧みだった。明治8年11月27日、63歳で死去した。
浜島月濤(1812-1892)はまじま・げっとう
文化9年知多郡北尾村新屋敷生まれ。通称は弥寿七のちに新右衛門。知多巡遊していた張月樵に師事した。月樵没後は高弟の貝谷采堂に南北合法の画法を学んだ。采堂没後は家督を継ぎ庄屋となり、職業画家をやめ多くの文人墨客と交流し、多くの粉本・書画帖を残している。明治25年6月、81歳で死去した。
司馬老泉(1841-1910)しば・ろうせん
天保12年生まれ。名は柴田常次郎。別号に弘斎、対梅、明仏庵がある。名古屋裏門前町でうどん屋「一六」を営んでいた。幼い頃から画を好み、はじめ喜田華堂に学び、事情があって破門され、のちに張月樵に師事した。はじめ弘斎と号し、文久2年に長崎に行き3年して帰った。また木下逸雲に従って南画を学び、諸国を遊歴して住居を定めず、放浪のすえ、明治43年11月26日、76歳の時に旅宿で死去した。
尾張(19)-画人伝・INDEX
文献:愛知画家名鑑