浅口郡玉島の旧家に生まれた柚木玉邨(1865-1943)は、東京帝国大学農学部卒業後、多くの会社や銀行の重役をつとめ、岡山県農業会で幹事兼技師として働くなど、地元の経済界に大きな足跡を残した。また、若い時から玉島を訪れた清の画人・胡鉄梅に指導を受け、山水や蘭竹をよくし、詩書にもすぐれていた。弟の久我小年(1868-1938)も南画を描き、煎茶道をたしなみ、築庭家として知られた。子の久太は洋画家になった。
柚木玉邨(1865-1943)
慶應元年備中玉島生まれ。名は方啓、字は子爰、通称は梶雄。家は松山藩の吟味役をつとめた奉行格の待遇を受けた旧家。柚木正兵衛の子で、のちに柚木玉洲の養子になった。別号に瓊壁仙客、雙壁斎主、西爽亭主人、小鋤雲館主人などがある。はじめ儒学を松田呑舟、信原藤陰、鎌田玄渓、鎌田平山に、詩を森春濤、三島中洲、高野竹隠らに、書を日下部鳴鶴に学んだ。明治23年東京農林学校(東京大学農学部)を卒業、第八六国立銀行取締役などをつとめ、岡山県農業会の幹事兼技師としても働いた。清の胡鉄梅について南画を学び、また中国に渡り宋元の絵画を研究した。詩文、書道にも長じ、県下を代表する文人として広範な影響を及ぼした。昭和18年、79歳で死去した。
久我小年(1868-1938)
明治元年玉島生まれ。柚木玉洲の子。小年が生まれる前年に玉洲は玉邨を養子にしていたため、のちに小田郡金浦の久我家を継いだ。名は苗啓。字は君碩・老春、通称は早苗。別号に小鯰、太古山人、小雲山房主人などがある。清の胡鉄梅について南画を学び、松田呑舟、鎌田平山に詩文を学んだ。明治19年には玉邨とともに東京に遊学した。古書画の鑑定や煎茶にも通じ、築庭家としても知られた。昭和13年、71歳で死去した。
柚木久太(1885-1970)
明治18年玉島生まれ。柚木玉邨の長男。県立岡山中学校卒業後上京し、満谷国四郎に師事して、太平洋画会研究所に学んだ。明治42年に太平洋画展に初入選、以後出品を続けた。明治44年には文展に初入選した。この年満谷国四郎、徳永仁臣らと渡欧、アカデミー・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスに師事した。スペイン、スイスでも制作したが、第一次大戦のため大正4年に帰国、翌年文展で3等賞を受け、以後文展、帝展、太平洋画会展を舞台に活躍、帝展審査員などをつとめた。戦後は郷里・玉島で制作し、昭和30年には和田三造らと新世紀美術協会を創立した。昭和45年、85歳で死去した。
岡山(19)-画人伝・INDEX
文献:岡山の美術 近代絵画の系譜、岡山の近代日本画 2000、岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-