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江戸時代の美人画の絵師

江戸時代の美人画の主要絵師を、前期、中期、後期に分けて掲載。
トップ画像は懐月堂安度「遊女と禿図」、喜多川歌麿「<歌まくら>より 茶屋の二階座敷の男女」

江戸初期の絵師

浮世絵の祖・菱川師宣(1618-1694)

生家は安房国保田の縫箔師。染織の下絵を描いて絵に親しみ、上方の版本や挿絵をはじめ、狩野派、土佐派、長谷川派などの既成様式を独習し、画技を磨いた。 一枚摺の組物制作し、生前から浮世絵の祖と称された。肉筆画だけでなく、絵本、挿絵の下絵を描き出版されたため、広く上方まで知られた。 子の師房や門人の古山師重らによる工房を主催し、作品を量産したが、師宣の没後、工房は衰退していった。

杉村治兵衛(不明-不明)

赤穂浪士の一人である村松喜兵衛の養父の甥。活動期は延宝から元禄で菱川師宣と同時期。画風も師宣に近いが、比較的ふくよかな女性を描いている。 組物ではなく一枚の図で完結する「一枚摺の浮世絵」の創始者とされる。

鳥居派の祖・鳥居清信(1664-1729)

大坂の女形役者だった父・鳥居清元と共に江戸の難波町に移住した。「役者絵」を浮世絵版画の重要な画題として確立させた。 役者絵が圧倒的に多いが、美人画、武者絵も描いた。清信の創始した鳥居派は、役者の絵看板や芝居番付などを家業としており、 江戸の歌舞伎界との結びつきを堅持し、300年世襲され、現在まで続いている。

初代鳥居清倍(1694?-1716?)

初代鳥居清信の弟、あるいは息子と考えられる。黒摺絵や丹絵、漆絵に見られる画風は、鳥居派初代の清信の作風を継承しながらも、奔放な画風を特徴とした。、 美人画においては、清信の画風を受け継ぎながら、さらに洗練させている。 清倍にも初代と二代があると考えられ、二代目清倍は鳥居家を継いだ。

鳥居清満(1735-1785)

二代鳥居清倍の門人。鳥居家の三代目当主。芝居看板、番付絵のほか、細判役者絵や草双紙の挿絵や美人画を多く手掛けた。 鳥居派の様式を遵守しながらも、時代の好みに応じた細身の女性を描き人気を得た。門人に鳥居清長がいる。

鳥居清広(不明-1776?)

鳥居派の系譜では清満の門人とされるが、年齢を加味すると、実際に師事したのは二代清信か、二代清倍だと考えられる。 鳥居派でありながら、役者絵よりも美人画に優れ、時代の風潮を映した細身で繊細な女性像を、溌剌と若々しく描いた。 繊細は表現を得意とし、行水や髪洗い、海女などの、肌をあらわにした女性美を描く「あぶな絵」も得意とした。

西川派の祖・西川祐信(1671-1750)

京都の医師の家に生まれ、狩野永納、土佐光祐に学んだとされる。丸顔でなで肩の女性を描き人気で、京都随一の浮世絵師と称された。 漢画大和絵の素養にたって、肉筆画にも多くの秀作を生み出し、京都、大坂のみならず、江戸の鈴木春信にも大きな影響をあたえた。

月岡派の祖・月岡雪鼎(1710-1787)

宝暦ころから天明寛政のころにかけて、上方の浮世絵・風俗画界は京都と大阪の二つの系統がみられるようになる。京都では円山応挙を祖とする円山四条派の系統、大阪では月岡雪鼎を祖とする一派が大きく流派を伝えた。雪鼎は近江から出て大阪心斎橋あたりに住み、肉筆と絵本を通じて大阪美人風俗を描いた。

懐月堂派の祖・懐月堂安度(1672-1743)

浅草諏訪町に住むの実力者で、菱川師宣や鳥居清信に私淑しながらも、独自のスタイルで遊女を描いた。安度の描く美人画は、安知、度範、度辰、度種、度知といった門人によってパターン化され、類型的な肉筆美人画が大量に制作された。 また、懐月堂という絵屋を経営し、吉原帰りの客に遊女を描いた自作を売っていたという。 正徳4年の絵島生島事件で黒幕として謀議したとされ、伊豆大島に流罪となったが、恩赦で江戸に戻った。

懐月堂安知(不明-不明)

懐月堂安度の門人。別号に長陽堂がある。門人の中でひとりだけ雅号に「安」を使っていることから、安度の子もしくは兄弟とみる説もある。 安度の様式を踏襲した一人立美人図の肉筆画、丹絵、墨摺絵の一人立美人図の作例が多いが、 安度の女性像が堂々とした反身であることに対し、安知にはやや直立した姿勢の人物が多く、女性の顔はやや丸顔で柔和な表情をしている。

懐月堂度繁(不明-不明)

懐月堂安度の門人。懐月堂工房で肉筆美人図や版画を手がけた。 度種、度秀、度辰などのほかの安度門下と同様、安度美人を写したような類型的美人を描いている。

懐月堂度辰(不明-不明)

懐月堂安度の門人。懐月堂工房で肉筆美人図や版画を手がけた。

松野親信(不明-不明)

肉筆画を専門とし、懐月堂安度とほぼ同時代に活躍した。懐月堂様式の大柄な美人を描くとともに、独自の表現として柔和で笑いかけるような美人を描いた。 古典に材をとる作品のあることや、絹本に良質の画材で描いたものもあることから、裕福な階層を対象に作画していた可能性も指摘されている。

宮川派の祖・宮川長春(1682-1752)

土佐派を学んだと伝わり、格調高い画風を築いた。作品は肉筆画だけで版画には制作していなかったとみられる。 多くの作品は遊郭の女性を題材としているが、懐月堂派の類型的な美人画とは異なり、花見や舟遊びなど、作品によって主題を変えて描いた。 寛延3年に宮川長春一門が、日光東照宮修理賃金未払いの件で狩野春賀一門と刃傷事件を起こし、宮川派は解体したが、門下の春水から勝川春章が出て、一門を継承した。

宮川春水(不明-不明)

宮川長春の門人。勝川春章の師。肉筆美人画を多く制作し、宮川一笑や宮川長亀など長春門人の画風を基調としながらも、より瀟洒で魅力的な美人を描いた。 宮川派一門が、稲荷橋狩野家狩野春賀一門と抗争を起こし、宮川派が衰退の危機にされされた際、画派を支え、門下から勝川春章を輩出するなど、流派の命脈を保った。 抗争事件後は、宮川姓を名乗らず、勝宮川、さらに勝川と改めた。

宮川一笑(1689-1779)

宮川長春の門人。師と同じく肉筆画のみを描き、美人画を得意とした。寛政頃から明和3年まで、伊豆新島へ遠島されていることが、近年あきからになった。

川又派の祖・川又常行(1677-不明)

錦絵誕生前には、版下絵を描かず、肉筆画に専念した絵師がおり、川又派もそのひとつだった。 華奢な身体に華やかな装い、洗練された品のいい美人画や美人風俗画を手がけた。やつしの風俗画も多い。木挽町狩野家の狩野常信に学んだとされる。

川又常正(不明-不明)

川又常行の門人。川又派は、版画や版本の制作が確認できず、肉筆画を専門とした流派のため、肉筆画が伝わっている。 古典文学や逸話をテーマとした見立絵を得意とし、京都の人気絵師・西川祐信の影響を受けながら、上方の優美な表現を作風に取り込み、細身の美人画を描いた。

奥村派の祖・奥村政信(1686-1764)

師宣、清信、懐月堂派に私淑し、しだいに独自を表現を確立、優美な美人画の様式を生み出した。版元・奥村屋を経営し、版画にさまざまな新規工夫を試みた。 また、松月堂立羽不角に俳諧を習い、俳諧的素養を生かして、浮世絵において古典の題材を当世化、滑稽化する趣向を展開した。 鈴木春信らによって考案された錦絵の誕生を見ることなく没したが、元禄期の菱川師宣と明和期の春信との間に長く創作活動を展開し、浮世絵発展に大きな功績を残した。

奥村利信(不明-不明)

奥村政信の高弟と思われる。息子・弟などの説もある。草双紙や細判の一枚絵を手がけており、政信の画風を継承している。 美人、若衆の物売りを優美にはつらつと描いた作品が特徴的である。

西村重長(不明-1756)

江戸の通油町の地主。晩年、神田に転居して書肆(本屋)を営んだと伝えられる。師系は定かではないが、その画風から鳥居清信の影響を受け 西川祐信や奥村政信などの作風を吸収しながら独自のスタイルを確立したとみられる。 画題としては美人画が最も多いが、役者絵、風景画、花鳥動物画、歴史画なども手がけている。 石川豊信、鈴木春信は門下とされる。

石川豊信(1711-1785)

西村重長の門人とされる。江戸小伝馬町の宿糠屋に婿入りし、代々の俗称である七兵衛を襲名した。 錦絵登場以前の紅摺絵の技法を用いて独自の美人画スタイルを完成させた。 丸みを帯びた温和で品のいい女性像を描き、春信にも影響をあたえた。女性の裸身や肌をみせる「あぶな絵」も多く制作している。 また、古典文学や俳諧にも親しみ、画中に自作の歌や句を入れたり、俳書の挿絵も描いた。

江戸中期の絵師

吾妻錦絵創始・鈴木春信(1725-1770)

江戸神田白壁町に住んでいた。西村重長門とも西川祐信門ともいわれる。 美人画、名所絵、武者絵など多様な題材の紅摺絵や水絵を制作した。 吾妻錦絵の創始者として知られ、従来の素朴な技法から、一気に多色摺木版画が誕生し、人びとはその美しさに、まるで錦のようだと感嘆したという。

一筆斎文調(不明-不明)

石川幸元に学んだとされる。役者絵を得意とした。それまでの類似化された役者表現から、肖似性を取り入れた新しい役者絵を描き、勝川春章と双璧と並び称された。 役者絵のほかに美人画もあり、「すがた八景」や「三六花撰」などの揃物が知られている。

北尾派の祖・北尾重政(1739-1820)

江戸小伝馬町の書店・須原屋三郎兵衛の長男として生まれ、画を志して家業を弟に譲り、俗欲を追わずに悠然と作画に遊んだとされる。 独学で画を学び、遊女や芸者を現実的な姿で描く独自の画風を確立させ、春信没後の浮世絵界を代表する存在となり、鳥居清長にも影響を与えた。 門下から、山東京伝(北尾政演)、鍬形蕙斎(北尾政美)が出ている。

窪俊満(1757-1820)

祖父の窪田政春、ついで揖取魚彦に学んだのち、北尾重政の門に入った。 鳥居清長風の美人画を錦絵、肉筆画で制作した。 特に、紅などの派手な色は使わず、墨・鼠を中心に紫・緑で表現する「紫絵」と得意とした。 また、狂歌にも本格的に取り組み、狂歌本の挿絵や狂歌摺物を数多く手がけた。

鳥居清長(1752-1815)

鳥居家三代清満の門人で、四代目を継いだ。江戸本材木町の書店・白子屋市兵衛の子。 遠近法を用いた現実的な江戸の風景の中に、均整のとれた女性像を描き、当時の美人画界を席巻した。 役者絵では音楽を受け持つ地方の人々まで画中に描きこむ「出語り図」という形式を創始した。 天明、寛政のころは幕府の財政破綻により町人階級が力をつけ、江戸文化爛熟の時代であり、錦絵は黄金期を迎える。 人々は古い因襲から解放され、知的な遊びを謳歌し、「野暮」を嫌い、「通」を求めた。 喜多川歌麿、鳥文斎栄之とともに三名家と称された。

磯田湖竜斎(1735-不明)

江戸小川町・土屋家の浪人で、武家の出であるというのが通説となっている。両国橋広小路薬研堀に住んでいた。 西村重長の門人と伝わるが不明。明和年間には春広の名で鈴木春信風の楚々とした美人を描いていたが、しだいに量感のあるどっしりした美人を描くようになった。 縦長の画面形式である柱絵に優品が多く、好色的なあぶな絵や秘画も多く描いている。

歌川派の祖・歌川豊春(1735-1814)

豊後または但馬の生まれで、京都で狩野派の鶴沢探鯨に学び、のちに江戸に出た。鳥山石燕に学んだとも、石川豊信に師事したともされるが不明。 中国版画や西洋の銅版画に学んだ透視遠近法を取り入れ、明和から安永にかけて浮絵を制作、天明期以降は肉筆美人画を主に描いた。 豊春以降の浮世絵は、透視遠近法を意識した奥行きのある背景表現がみられるようになった。 歌川派の開祖として、豊広や豊国を育てた。

勝川春章(1726-1793)

勝川派の祖。宮川長春に学び、宮川や勝宮川を名乗っていたが、勝川に改めた。英派の高崇谷にも学んだという。 一筆斎文調とともに役者似顔絵の創始に貢献した。天明期に入ると美人画に転じ、 鈴木春信によって創立された錦絵を、写実を基調とした筆力によって隆盛に導き、明和以降に大きな発展を遂げる浮世絵の中心的な役割を果たした。 この門から出た春朗はのちに葛飾北斎となり、浮世絵界で大きな存在となった。

勝川春好(1743-1812)

勝川春章の門下の第一人者。明和末から文化にかけて細判の役者絵を多く発表した。また、大判の役者大首絵に傑作が多い。 天明7、8年頃に中風をわずらい右手がきかず、以後は左手で描いた。 師春章の作風を最もよく伝えている。

勝川春英(1762-1819)

勝川春章の門人。春好とともに春章門下の双璧とうたわれた。春潮などとともに独自の画風を示し、美人画、役者絵、相撲絵などを描いた。

勝川春潮(不明-不明)

勝川春章の門人。晩年は窪俊満の門に入って、吉左堂俊潮と改めた。役者絵で一世を風靡した春草の門下だが、役者絵よりも美人画を好んで描いた。 版画においては鳥居清長に私淑し、長身で健康的な美人を描いた。寛政年間末頃には浮世絵界を離れ、俳諧の世界に遊んだとされる。

鈴木春重〔司馬江漢〕(1747-1818)

洋風画家・司馬江漢の浮世絵師名。天明3年に日本で最初の銅版画制作に成功。油絵の研究など洋風画の先駆者としても著名だが、安永年間後期頃まで浮世絵師として活躍していた。 江漢の著書『春波楼筆記』によると、はじめ狩野派に画を学び、ついで宋紫石のもとで南蘋派の絵画を学び、鈴木春信が没すると、その様式を模倣した美人画を刊行した。 画風は春信に倣いながらも、背景の構成に遠近法を用いるなど、独自の画風を構築したが、次第に浮世絵の制作から離れた。

水野廬朝(1748-1836)

北尾重政の門人と伝えられる。美人画では、重政風、磯田湖竜斎風、歌川豊春風、歌麿風など、さまざまな画風を取りいれている。また、勝川派に倣う役者絵もある。

喜多川歌麿(1753-1806)

喜多川派の祖。鳥山石燕の門に狩野派を学んだとされる。寛政初年、蔦屋重三郎の協力を得て、いわゆる「美人大首絵」という新様式を開拓発表し、その写生の技量が注目され、一躍時代の寵児となった。 文化元年、禁じられていた題材「太閤記」を錦絵版行し、手鎖の刑を受けた。

鳥文斎派の祖・鳥文斎栄之(1756-1829)

鳥文斎栄之は高級武士の出で、狩野栄川院典信に師事して御用絵師をつとめていたが、浮世絵を志し、家督を子の時豊に譲って野に下った。 座像や立像によって女性を全身をとらえ、肉感的な表現を避けた風格ある美人風俗画を描き、喜多川歌麿の「美人大首絵」に拮抗する人気を博した。 門下からは、鳥高斎栄昌、鳥橋斎栄理らが出ている。

栄松斎長喜(不明-不明)

喜多川歌麿と同じく、鳥山石燕の門人と伝わっている。鳥居清長、喜多川歌麿、鳥文斎栄之らの影響を受けて、線の細い柔和な女性像を描いた。 錦絵の大部分が、版元の蔦屋重三郎と鶴屋吉右兵衛門から出ている。

鳥高斎栄昌(不明-不明)

鳥文斎栄之の門人。3枚続の美人画や、大首絵の美人画に独自の作風を示した。

祇園井特(1755-1815?)

京都祇園町南側に住み、一説には珍器売薬店経営したという。京都の女性を題材に、写実的で妖艶な美人画を描いた。

北尾政美〔鍬形蕙斎〕(1764-1824)

北尾重政の門人。父は駿河国出身で江戸で畳職人をしていた。北尾重政に入門し、17歳頃から「北尾政美」と名乗るようになった。 31歳のときに美作国津山藩松平家の御用絵師として召し抱えられ「蕙斎」と改号。のちに、六代藩主・松平康乂の命を受け、奥絵師の狩野養川院惟信に入門、召眞と名乗り、のちに「鍬形」と改姓した。

東洲斎写楽(不明-不明)

伝歴は不明で、近年では阿波の能役者・斎藤十郎兵衛説が有力となっている。寛政6年の10か月間のみ活動し、錦絵はすべて版元・蔦屋重三郎から刊行されている。 役者の芸質、役柄の本質までもとらえ、美化することなく顔の特徴を描いた。

初代歌川豊国(1769-1825)

歌川派の祖・歌川豊春の門人で、歌川派隆盛の基礎を作った。寛政6年に発表した、役者の似顔とその全身の舞台姿を描いた「役者舞台の姿絵」で一躍有名となった。 さらに、半身、大首の役者絵を次々に発表し、役者似顔絵の第一人者となった。 美人画は清長の影響を受け、いわゆる「寛政風様式」だったが、文化年間ころからは、時代の要望にこたえて、独自の美人画を描くようになった。

歌川国政(1733?-1810)

会津の出身で紺屋の職人だったが、芝居好きが高じて役者の似顔絵を描くうちに、紺屋の主人と交際のあった初代豊国の門人になったと伝えられる。 暇があれば芝居小屋に向かうほどの芝居好きだったので、筋や役者の演技を熟知しており、芝居のクライマックスを的確に描きあげ、人気を得た。 勝川派から歌川派へと役者絵の主流が移っていく過程で大きな役割を果たしたといえる。 作画の中心は役者絵だが、美人画や肉筆作品も手がけた。

歌川豊広(1765-1829)

初代歌川豊春の門人で、豊国と並ぶ高弟とされる。錦絵、版本で佳作を残している。また、穏やかな肉筆美人画も得意とした。 曲亭馬琴や式亭三馬、十返舎一九などの読本や黄表紙、合巻などに挿絵を寄せた。

江戸後期の美人画の絵師

葛飾派の祖・葛飾北斎(1760-1849)

勝川春章に入門し、春朗と号したが、俵屋宗理となり、寛政10年に北斎と号して一家をなした。 その後20余回改名し、その都度画風を変え、森羅万象描かぬものはないと言われた。版画では「富嶽三十六景」が世界的に有名で、 絵本では「富嶽百景」「北斎漫画」などがある。肉筆も多く残っている。

魚屋北渓(1780-1850)

はじめ狩野養川院惟信に学び、のちに葛飾北斎の門に入った。 四谷の鮫ケ橋で、松平志摩守御用達の魚屋を営んでいたため、「魚屋」を号とした。 挿絵、肉筆画、摺物、錦絵と幅広いジャンルを手がけたが、なかでも狂歌絵本の挿絵と狂歌摺物は重要な分野で 挿絵の量は北斎を凌駕するともいわれる。

葛飾応為(不明-不明)

葛飾北斎の娘。生没年は不明だが北斎37歳の時の子だという説がある。 父に似て変わり者だったようで、任侠の気風を好み、女仙人になることを願っていた。 趣味人の商家に嫁いだが、離婚となった。 離婚の原因のひとつが、夫の描く絵が下手だと常に笑いものにしたからだという。 父の元に返ってからは、再婚せず、父の助手をしながら、自分でも絵を描いた。 北斎が「自分の美人画は応為にはかなわない」と人に語ったと伝わっているほどの腕前だったが、北斎没後、数年して行方不明となった。

歌川国貞(三代豊国)(1786-1864)

初代歌川豊国の門人で、弘化元年に三代豊国を継いだ。幕末期最高の人気絵師として役者絵を中心に美人画などを制作、その作品数は浮世絵師の中で最大といわれ、 大衆の間に浮世絵を広めた。美人画では、天明期の世相から時代の好みに応じた、退廃的で官能的な美人を描いた。

菊川派の祖・菊川英山(1787-1867)

狩野派に学んだ父・英二から画法を学び、のちに鈴木南嶺に師事した。また、友人の北渓を通じて北斎の画風を学んだ。 文化3年に喜多川歌麿が急死すると、歌麿様式に上品さを加味した美人画を制作し、歌麿没後の美人画人気を支えた。

渓斎英泉(1790-1848)

菊川英山の門人。江戸の下級武士の家に生まれ、はじめ狩野白珪斎に学び、のちに菊川英二・英山に師事した。 仕官をしたこともあるが、人におとしいれられて浪人となり、それからは世にそむき、浮世絵を描いた。 また、遊女屋主人となるなど奔放な生活を送った。作風は、北斎を慕っていたこともあり、北斎に近く、美人画は独特の妖艶さを持っている。 戯作者としても知られる。

歌川広重(1797-1858)

歌川豊広の門人。定火消同心の子として生まれた。一時は家業を継ぐが、まもなく歌川豊広に入門、広重の画号を許された。 また、岡島林斎から狩野派を、大岡雲峰から南画を学び、さらに師は不明だが四條派も学んだ。 それまで美人画や役者絵の背景としてしか描かれなかった風景画を、浮世絵における独立した分野として確立させ、葛飾北斎と共に「名所絵」の流行を牽引した。 肉筆美人画も制作し、吉原遊女などを題材に、色鮮やかな美人画だけでなく、淡墨や淡彩を用いた美人画も得意とした。

歌川国芳(1798-1861)

初代歌川豊国の門人で、広重の風景、国貞の役者・美人画、国芳の武者として幕末の浮世絵界の人気を三分した。 また、遠近法や陰影法を用いた洋風表現を取り入れた風景画も高く評価されている。 国芳の系譜は、弟子の月岡芳月から水野年方、さらに鏑木清方、伊東深水と続き、現代日本画の美人画の系譜を現代に続けている。

江戸末期の美人画の絵師

河鍋暁斎(1831-1889)

7歳で歌川国芳に入門して浮世絵を学ぶが、10歳の時に狩野派の前村同和の門に移った。同和が病に伏したあとは、狩野洞白の下で学んだ。 安政2年に鯰絵を描いて以来、美人画、武者絵、風刺画などの錦絵を数多く手がけた。28歳の時に惶々狂斎と号して「狂画」を描き、人気を博した。 明治3年に描いた戯画が政府高官を風刺したものととがめられ投獄された。これを機に号を「暁斎」に改めた。独創的な作品を多く残している。

落合芳幾(1833-1904)

浅草田町の引手茶屋に生まれた。歌川国芳に入門し、役者絵、美人画を得意とした。 人物の横顔の特徴をとらえて影絵として描いた作品で知られている。 明治に入ってからは、東京日日新聞や東京絵入新聞の創刊に参加し、新聞や文芸雑誌の挿絵という新しいジャンルを開拓した。

豊原国周(1835-1900)

11歳の時に長谷川派の豊原周信に入門し、羽子板押絵の原画を制作した。 嘉永元年に歌川国貞の門人となり、錦絵を制作した。 役者大首絵を得意とし、月岡芳年、小林清親と共に最後の浮世絵師といわれる。

楊洲周延(1838-1912)

越後の旧高田藩士の子として生まれた。はじめ歌川国芳に学び、ついで国貞、さらに豊原国周の門人となった。 国周の流れを汲む役者絵の加え、西南戦争に取材した戦争画、明治の開花風俗を取り込んだ美人画などを描いた。

月岡芳年(1839-1892)

歌川国芳の門人で、月岡雪斎の養子となり月岡姓を名乗った。はじめ国芳の画風を踏襲した武者絵を描いていたが、開港直後の横浜を描いた 錦絵や戊辰戦争に取材した「血みどろ絵」で注目を集めた。明治6年に強度の神経衰弱となり、回復後「大蘇芳年」を名乗った。 弟子に水野年方がおり、その弟子に鏑木清方、さらにその弟子に伊東深水と、日本画の美人画の系譜は引き継がれていった。

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