二刀流の剣豪として名高い宮本武蔵(1584-1645)も岡山ゆかりの画人である。「二天」と号して画筆をとり、個性豊かな作品を残している。出生地は美作説のほかに播磨説もあるが、近年の研究によると、播磨に生まれ、幼少時から新免無二の養子となって美作国宮本村で過ごしたとする説が有力である。
武蔵の画歴は明らかではないが、画史『画乗要略』には、海北友松(1533-1615)に学んだとある。また、現存する作品のほとんどは、寛永17年に肥後熊本藩主・細川忠利に招かれて熊本に移り住んでから没するまでの約5年間に描かれたものであると推定されている。熊本で執筆した兵法書『五輪書』によると、武蔵が諸国を巡り剣技を磨いていたのは28、9歳の頃までで、それ以降は兵法の道理を極めるために鍛錬を重ね、会得したのは50歳の頃だったという。また、兵法を完成させるためには、諸芸すなわち思想や芸術の分野を学ぶ必要があるとも記されている。
武蔵が描く水墨画の題材は、禅に関する達磨図や布袋図などが多い。また、身近に生息する雀や鵙、翡翠や鳩などにも取り組んでおり、その一瞬の動きをとらえた緊張感のある画面は、剣に生きた武蔵が体得した「観見二眼」(目でみることが見、心でみることが観)に通ずるものがある。
宮本武蔵(1582?-1645)
天正12年生まれ。前半生は不明な点が多い。出生地は、美作国宮本村(岡山県英田郡大原町)説と播磨説がある。播磨に生まれ、美作国宮本村で過ごしたとする説が有力である。名は武蔵・玄信、号は二天。慶長17年の佐々木小次郎との巌流島での決闘で知られるように、若い頃から諸国を巡って武芸修業を積み、「二天一流」を創始した。寛永17年から肥後熊本藩主・細川忠利に仕え、この頃から歌、書、茶などに没頭、本格的に画作を始めたものと思われる。画業については不明な点が多いが、中国の梁楷や同じ武人画家の海北友松らに減筆体を学んだものと考えられる。寛永20年に兵法書として著名な『五輪書』を熊本雲巌寺の洞窟にこもって書き始めたという。正保2年、62歳で熊本において死去した。
岡山(2)-画人伝・INDEX