画人伝・大分

大分の近世絵画・狩野派

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初代木崎隆川 勿来関図

二豊(豊後と豊前の一部)の近世絵画は、18世紀までの狩野派の時代と、19世紀に入ってからの南画の時代に分けられる。江戸幕府で御用絵師をつとめ、地方でも勢力を強めていた狩野派は、大分においても200年ほどの歴史を持つが、南画の時代に田能村竹田をはじめとした優れた画人を多く輩出したのに対し、狩野派の時代には絵画史的にとりあげるべき人物はほとんど出ていない。

江戸時代の大分県は、中津藩、岡藩、臼杵藩、杵築藩、日出藩、府内藩、佐伯藩、森藩の8藩と、天領日田や宇佐神宮領などの7領に分割されていた。小藩が分立していたため、九州の他の有力藩のように城の大広間などに障壁画を描くような御用も少なく、また小藩ゆえに財政も苦しかった。そのため、大分では九州他藩のように雲谷系の絵師や狩野派の絵師を代々藩絵師として招いた様子はまったくみられず、わずかに小笠原氏時代の中津藩と、宇佐神宮領に海北系の絵師の記録が残っているが、いずれも一時的に滞在した絵師とみられ、絵師として召し抱えられた記録はない。

各藩の画事に関しては、藩士のなかから絵に堪能な人物を選び、藩命により狩野派を学ばせて御用にあたらせていたとみられる。府内藩・日出藩には狩野派を学んだ藩主もいたことから、木崎隆川や安藤梅峯が江戸で狩野派の技法を身につけ絵師をつとめている。岡藩では、淵野真斎が江戸で学び狩野派の藩絵師となったが、のちに南画に転じ、田野村竹田の初期の師となった。

森藩では、成田圓平に園田洞兆(不明-1849)と名乗ることを許し、藩絵師に任命、文政12年には江戸の狩野洞白のもとで絵を学ばせている。また、正式な藩絵師としての位置づけではなかったようだが、臼杵藩では土師元雪(不明-1697)、井水玄斎が狩野派をよくした。佐伯藩で藩絵師をおいた記録はなく、中津藩・杵築藩においては狩野派に関する記録を見出すことはできない。

園田洞兆(不明-1849)
森藩絵師。名は洞兆、諱は愛親。玄々斎と号した。文化7年藩絵師になった。人物花鳥をよくした。画事のほかに多くの芸事に通じ、浄瑠璃を最も得意にしたという。作品はあまり残っていない。嘉永2年死去した。

土師元雪(不明-1697)
臼杵藩絵師。諱は氏之、通称は権十郎。剃髪して元雪と号した。画は狩野元俊の門人とされている。稲葉家の霊屋の天井の雲龍画や、自性寺、法音寺に残る涅槃図などが元雪の作だといわれている。元禄10年死去した。

文献:大分県の美術、大分県史

大分県の歴史散歩
山川出版社







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