新潟県中頚城郡高城村(現在の上越市)に生まれた牧野虎雄(1890-1946)は、5歳の時に新潟を離れ、一家で東京に移住した。日本中学(現在の日本学園高等学校)在学中に画家を志し、白馬会の葵橋洋画研究所で学び、明治41年、18歳で東京美術学校西洋画科に入学した。
同校在学中の大正元年、第6回文展に初入選し、以後も文展に出品、第10回文展、第12回文展で特選となった。大正8年に文展が改組され帝展になると、第1回展から無鑑査出品となり、大正11年、32歳で帝展審査委員をつとめた。
大正13年には、高間惣七、田辺至、大久保作次郎、熊岡美彦らと「槐樹社」を結成、第1回展に19点の作品を大量発表するなど、精力的な活動を通して日本洋画壇での地位を固めていった。
さらに、日本画的表現をする一方で油彩表現を崩さない「日本的洋画」を目指し、昭和5年、日本画家の福田平八郎、中村岳陵、山口蓬春に、洋画家の中川紀元、木村荘八、さらに外狩素心庵、横川毅一郎の美術評論家を加えて「六潮会」を結成し、この会での活動を通して、次第に日本画的装飾性を打ち出すようになる。
その後も帝展を中心に槐樹社、六潮会に出品していたが、昭和7年に槐樹社は解散し、旧槐樹社同人が発起人となって、昭和8年に牧野を盟主とする「旺玄社」(のちに旺玄会と改称)が結成され、東京府美術館で第1回展が開催された。
その間、昭和4年に開校した帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)の西洋画科教授となり、昭和10年にはそれを辞して同年開校した多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)の西洋画科主任教授をつとめ、後進の育成にも力を注いだ。
昭和10年、帝展改組が行なわれ、その際に在野の有力画家を取り込もうとする動きがあったため、それに反発して帝展をやめ、以後は官展へは出品せず、旺玄社や六潮会、個展を中心に作品を発表した。
そのような状況のなか、牧野の画風はさらに日本画・南画的傾向を強めていったが、目指していた「日本的洋画」の完全な成熟を果たせぬまま、健康を害して56歳の生涯を閉じた。
牧野虎雄(1890-1946)まきの・とらお
明治22年中頚城郡高城村(現在の上越市)生まれ。5歳の時に一家で東京に移った。日本中学校3年の時に、白馬会洋画研究所で洋画を学び、明治41年東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝、藤島武二の指導を受けた。在学中の大正元年第6回文展で初入選。大正5年の第10回文展、大正7年の第12回文展で特選となった。帝展では第1回展から無鑑査出品となったが、帝展改組後は官展への出品をやめた。大正13年槐樹社の結成に参加、昭和8年の同会解散後は、自ら旺玄会を主宰した。昭和4年帝国美術学校洋画科教授に就任し、翌年福田平八郎らと六潮会を結成。同年帝展審査員。昭和10年多摩帝国美術学校の創設に参画し、洋画科主任教授となった。昭和21年、56歳で死去した。
新潟(29)-画人伝・INDEX
文献:新潟の絵画100年展、新潟の美術、越佐の画人、 新潟市美術館 全所蔵作品図録(絵画編)、越佐書画名鑑 第2版