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独学で洋画を描き28歳で没した手塚一夫

手塚一夫「村娘」

手塚一夫「村娘」

手塚一夫(1911-1939)は、山梨県中巨摩郡百田村(現在の南アルプス市)の養蚕農家の長男として生まれた。小学生の頃から図画が好きで、紙がないときには運動場の地面に絵を描いていた。小学校高等科の時、自分には絵より他に進む道はないと思い、隣村に住んでいた日本画家の斎藤倭文緒(1904-1985)のもとに通うようになった。

それからは、家で一番大きい八畳間を占領し、家業の養蚕が忙しい時期にも家のことは一切せず、絵ばかり描いていた。出来た絵を持って斎藤倭文緒のところに行き、絵の話をはじめ、文学の話や東京の話をしているうちに東京への憧れが募っていき、18歳のある日、ふらふらと汽車に乗り東京まで行ってしまった。横山大観の家を訪ね、弟子入りを懇願したが叶わず、街をさまよっているところを警察官に捕まり、村に送り返されてしまった。

村に帰ってからは、仕事もしないで家にいることに耐えられなくなり、甲府の浅川印刷所の銅版工になり、8キロ余りの道を自転車で通って働いていたが、この頃にはすでに肺を患っていたため、仕事も長くは続かなかった。この頃、日本画の制作姿勢では胸を圧迫するため、独学で学び油彩画に転向した。

昭和11年、26歳の時に同郷で生涯の理解者となる中込忠三と出会い、上京して本格的に画業を展開することになる。中込は、手塚より一つ年上で山梨県の南巨摩郡増穂村の出身だった。甲斐美術展で見た手塚の作品に魅了され、当時、東京帝国大学(現在の東京大学)の大学院生だったが、まもなく東京南千住四瑞光小学校の期間代用教員の職を得て、本郷の下宿に手塚を迎え、二人で自炊生活をはじめた。中込が就職先に南千住の小学校を選んだのは、手塚の好きな工場地帯の、貧しい子どもたちがいる小学校で働こうと思ったからである。

手塚は、中込のもとで生活しながら、二人で東京の街を歩き、情熱的に絵を描いた。その間、里見勝蔵を訪ねて絵を見てもらい、新宿の路上で知り合った長谷川利行とは中込と三人で一時期同居生活を送った。描くことにのみ魂を燃やし続けた手塚だったが、肺結核は徐々に悪化していき、ついに郷里での療養を余儀なくされ、昭和13年8月に帰郷した。同年10月には第2回山梨美術協会展で知事賞を受賞したが、その6ヵ月後に28歳で没した。

手塚の遺作は、その後の空襲や不慮の火災でほとんで焼失したが、昭和59年には「手塚一夫とその周辺展」が白根桃源美術館(現在の南アルプス市立美術館)で開催され、里見勝蔵、長谷川利行、横井弘三、小野元衞らの作品とともに展示された。また、その翌年、洲之内徹の現代画廊でも「手塚一夫とその周辺展」が開催されている。

手塚一夫「向日葵」

手塚一夫「向日葵」

手塚一夫(1911-1939)てづか・かずお
明治44年山梨県中巨摩郡百田村生まれ。はじめ日本画を志し斎藤倭文緒に手ほどきを受け、のちに独学で学び油彩画に転向した。一時印刷所為の図案工として職についた。昭和11年中込忠三によって画才を見出され上京、里見勝蔵、長谷川利行らと交流した。中込のもとで生活しながら「狂人」「早稲田の時計台」「鶴見工場風景」「ガスタンク」などを描いた。昭和13年郷里に戻り第2回山梨美術協会展で「煉瓦の家」「ニコライ堂」を出品して知事賞を受賞するが、昭和14年、28歳で死去した。没後、銀座の資生堂ギャラリーで遺作展が開催され、美術史学者・児島喜久雄は、「本当の画狂」という一文を朝日新聞に寄せている。

斎藤倭文緒(1904-1985)さいとう・しずお
明治37年山梨県中巨摩郡八田村生まれ。本名は静雄。大正12年日本美術学校に入学し日本画を学んだ。在学中の大正14年第6回中央美術展で初入選。翌年日本美術学校を卒業。昭和5年再興日本美術院同人の郷倉千靱の草樹社に入門。翌年第18回院展に初入選。昭和17年院友になった。昭和26年以降ほとんど毎年院展に出品し、昭和42年から3年連続して春季展で奨励賞を受賞。昭和45年特待になり、翌年から無鑑査。昭和60年、81歳で死去した。

山梨(28)-画人伝・INDEX

文献:中込忠三「炎の絵」、山梨の近代美術



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