島崎鶏二(1907-1944)は、島崎藤村の二男として東京浅草に生まれ、15、6歳の頃から2年間、信州木曽馬籠で農業を手伝うかたわら絵を描く生活を送った。その後、川端画学校に入学して藤島武二の指導を受け、昭和3年の第15回二科展で初入選した。
昭和4年からフランスに留学し、3年間パリ・アカデミーに学ぶかたわら、イタリア、スペインなどに旅行し、西洋絵画についての研究を深め、サロン・ドートンヌにも出品した。
昭和6年帰国し、第18回二科展に滞欧作品を特別陳列して佐分賞を受賞。昭和9年の第21回二科展で特待となり、翌年会友に推挙され、昭和11年の第23回展では推奨を受賞し、翌年会員となった。
当時の二科会では岡田謙三とともに新感覚の作家として注目され、昭和18年には文展の審査員に推薦されるなど今後の活躍が期待されたが、翌年同じ二科会の硲伊之助の代理で従軍画家として南方に写生に出かけ、インドネシアのバリ島からの帰途、タラカン島付近で飛行機が墜落、37歳で死去した。
弟の島崎蓊助(1908-1992)も兄と同じく川端画学校に学び、その後プロレタリア美術運動に参加、ドイツ留学からの帰国後も制作は続けたが発表はせず、生涯唯一の個展を親しかった詩人・宗左近の企画により日本橋・柳屋画廊で開催した。
島崎鶏二(1907-1944)しまざき・けいじ
明治40年東京浅草生まれ。島崎藤村の二男。川端画学校を修了後、昭和3年第15回二科展初入選。昭和4年から6年にかけて渡仏。昭和6年第18回二科展に滞欧作を特別陳列し、以後連続出品。昭和9年第21回二科展で特待となり、昭和10年第22回二科展で会友推挙。昭和12年第24回展で会員となった。昭和19年、ボルネオ島東海岸タラカン島付近で飛行機事故により、37歳で死去した。
島崎蓊助(1908-1992)しまざき・おうすけ
明治41年東京浅草生まれ。島崎藤村の三男。2歳の時に姉の嫁ぎ先である信州の木曽福島の高瀬家に預けられ13歳まで過ごした。大正10年福島尋常小学校を卒業して東京に戻り、翌年兄と同じ川端画学校に入学した。昭和4年プロレタリア美術家同盟に参加。同年からドイツに4年間留学。昭和19年陸軍報道班員として中国に渡り戦禍をスケッチした。帰国後も制作は続けたが発表はせず、昭和45年生涯唯一の個展を日本橋・柳屋画廊で開催した。著書に「父藤村と私たち」「藤村私記」等がある。平成4年、83歳で死去した。
長野(68)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第6巻、信州の美術、松本平の近代美術、島崎蓊助遺作展-描かざる幻の画家