伊那谷には、古くから白隠や谷文晁ら多くの文人墨客が訪れ、この地の若者たちに大きな影響を与えているが、明治8年に初めて飯田を訪れた富岡鉄斎もその一人だった。
当時の伊那谷には平田篤胤の門下生が多く、それに水戸学の影響も加わって、尊王思想が浸透していた。そのような土地柄だけに、尊王思想に厚い鉄斎の訪問は各地で大歓迎され、飯田の人々に大きな影響を与えたが、特に大平小洲と安藤耕斎はその影響を強く受けた画家とされる。
安藤耕斎(1862-1939)は、下伊那郡下川路村(現在の飯田市)に生まれた。安藤家は地元屈指の地主で、父親は農業の余暇に俳句を楽しんでいた。その父のもとには諸国の俳人はじめ文人墨客が訪れ、伊那谷の漂白画家・原蓬山も滞在したことがある。
そのような環境のなかで育った耕斎は、幼いころから画才を発揮し、前田龍川に書を学び、関島松泉に漢籍詩文を学び、絵は原蓬山の影響を受けた。20歳の時には師の関島松泉の著作『芙蓉洞の記』に装画を寄せ、はじめて「炯潭」と号した。
明治19年、父親が没したため、25歳で安藤家の当主となり、明治21年町村制が発布され、初代の村会議員となった。明治29年、35歳の時に下川路村助役に就任、翌年には伊那銀行創立の発起人となり、下川路村の村長に就任、明治32年には村長を辞任して、下川路郵便局長になった。
要職を歴任する一方で、明治26年、31歳の時に京都に行き、かねてより私淑していた富岡鉄斎に入門した。明治32年には、鉄斎に書斎を「心耕斎」と命名されたのを機に雅号を「耕斎」とした。明治36年には明治8年に訪れて以来2度目となる飯田訪問を、鉄斎は果たしている。
明治41年、47歳の時に家督を息子に譲り、一切の公職を辞して作画に専念し、明治44年、50歳の時に鉄斎の住む京都に転居し、関西北陸各地を旅行して作画した。大正5年には郷里から鉄斎を慕う大平小洲が京都の耕斎宅を訪ね、その3年後にも再び安藤宅に1カ月ほど滞在し、その翌年も1週間滞在している。
大正15年、京都から郷里に戻り、同年秋には天龍峡に画室「老学庵」を建設し、以後全国で画会を開き、昭和8年には日本橋白木屋で個展を開催した。
安藤耕斎(1862-1939)あんどう・こうさい
文久2年下川路村(現在の飯田市)生まれ。安藤彌十郎の長男。本名は茂一。26歳から初代村会議員、助役、村長、郵便局長などの公職を歴任。明治26年、31歳の時に富岡鉄斎に入門。明治42年郵便局長を辞して京都に出て画業に専念した。明治45年から毎年、中京、北陸各地などを遊歴。大正15年、天龍峡に画室「老学庵」を建設。以後全国で画会を開催した。昭和14年、77歳で死去した。
前沢麓石(1894-1985)まえざわ・ろくせき
明治27年飯田市生まれ。飯田市立石の村長・玉置駒太郎の二男。本名は蔵六。幼いころから伯父の安藤耕斎に師事し、農業に従事しながら絵筆をとった。昭和60年、91歳で死去した。
山田耕雲(1890-1975)やまだ・こううん
明治23年飯田市竜丘生まれ。本名は政四郎。大正8年頃から絵に親しむようになり、安藤耕斎に師事した。竜丘村会議員、竜丘村農協理事などを歴任。そのかたわら画友会会員として活動した。昭和50年、86歳で死去した。
片桐白登(1908-1997)かたぎり・はくと
明治41年下伊那郡豊岡村(現在の飯田市)生まれ。村の小学校高等科を出た。大正12年安藤耕斎について京都に出て南画を学んだ。昭和6年水田竹圃に師事。昭和8年第12回日本南画院展に初入選し、以後同展に出品。昭和9年第15回帝展に初入選、新帝展にも入選したが、昭和12年に新興南画院の設立に加わったため、院の方針により以後官展不出品。昭和18年飯田に転居し、全信州美術展、長野県展などに出品したが、昭和34年東京に転居した。昭和36年日本南画院の理事、昭和39年日本南画院で文部大臣賞を受賞。その後、日本南画院の副理事長をつとめた。平成9年、89歳で死去した。
長野(30)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第3巻、飯田の美術 十人集、郷土美術全集(飯田・下伊那)〔前編・後編〕、信州の南画・文人画、松本市美術館所蔵品目録 2002、長野県美術大事典