長尾無墨(1832-1894)は、高遠藩士の子として生まれ、学問を父と藩の儒者・中村元恒に学んだ。漢学の素養があり詩文にも長じ、特に絵画を得意とし、田能村竹田に私淑して多くの作品を残している。万延元年、27歳の時に高遠藩の藩校・進徳館が創設された際には大助教をつとめ、明治になってからは筑摩県の役人となって「説諭要略」をまとめて信州教育史上重要な記録を残した。
筑摩県の役人を退いてからは画業に専念した。官を辞した年代については明らかではないが、50歳前くらいに東京に出て、詩人や画人と交流し、田能村直入の門に入ったとされる。さらに、51歳の時にひとりで清国に渡り画法を学んだとされるが、詳しいことは分っていない。
雁図を明治天皇の天覧に供したことから「天雁」とも号するようになり、これを境にもっぱら雁図を描くようになった。雁のさまざまな姿態を描きこんだ「百雁図」(掲載作品)は無墨の画業の集大成ともいえる。
内田文皐(1842-1910)も無墨と同じ高遠藩士の出身で、藩校・進徳館に学び、画は姉の夫である伊澤文谷(1818-1878)に学んだ。江戸在勤中には福島柳圃から南画を学び、その後、児玉果亭に師事し、長尾無墨らと交流した。伊那郡や筑摩郡下の小学校で教鞭をとり、教員辞職後は京都に出て画業に専念した。
他にこの時代の高遠の南画家としては、中村不折の初期の師とされる真壁雲郷(1844-不明)がいる。
長尾無墨(1832-1894)ながお・むぼく
天保3年上伊那郡高遠町生まれ。高遠藩士。宇夫形豊久の子。幼名は佐伝次、諱は冀北、通称は平右衛門、別号に天雁、張天梅、千里などがある。学問を父と中村元恒に学び、詩文に長じ、特に絵画を得意とした。万延元年、高遠藩に藩校・進徳館が創設された際には大助教に任じられた。この頃から精力的に絵を描くようになり、主として「冀北」の雅号で多くの作品を残している。明治2年、高橋白山とともに藩政を批判したことが問題となり高遠を追われ、洗馬(現在の塩尻市)に移り住み、住家を「漁樵吟社」と名づけて子弟の教育にあたった。明治5年には仁科学校(現在の大町西小学校)の校長となったが、翌年辞して筑摩県の官員となり、明治初期の学校創設の基礎づくりに尽力、明治7年には県下各地の教育状況を視察した様子をまとめた『説諭要略』を著した。筑摩県の官員を退いてからは画業に専念するようになり、東京に出て田能村直入に入門し、清国に渡って学んだとも伝わっている。明治27年、62歳で死去した。
内田文皐(1842-1910)うちだ・ぶんこう
天保13年上伊那郡高遠町生まれ。高遠藩士。字は志徳、名は敬義。別号に淡水、餐霞楼などがある。幼いころから藩の儒者・中村元恒に学び、藩校・進徳館に進んでからは、絵画・書道に興味を持つようになり、画は義兄の伊澤文谷に、書は桑野某に学んだ。また、江戸では福島柳圃に学び、明治になってからは滝和亭らと交流した。伊那郡や筑摩郡下の小学校で教鞭をとり、教員辞職後は京都に出て画業に専念した。明治43年、69歳で死去した。
伊澤文谷(1818-1878)いさわ・ぶんこく
文政元年上伊那郡高遠町生まれ。伊澤修二の父。内田文皐の義兄。通称は勝三郎、左門次。字は貞義。佐藤薫谷に師事した。書にも精通し、藩の祐筆をつとめた。明治11年、61歳で死去した。
真壁雲郷(1844-不明)まかべ・うんきょう
天保15年上伊那郡高遠町生まれ。通称は恭蔵。松岡環翠に師事した。幼いころの中村不折を教えた。
長野(23)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第3巻、上伊那の美術 十人集、郷土美術全集(上伊那)