高井鴻山(1806-1883)は、上高井郡小布施村(現在の小布施町)に生まれた。生家は江戸初期以来の旧家で、商業を営み、京都九条家及び諸藩の御用達をつとめていた。鴻山は15歳の時に京都に遊学し、摩島松南に経詩文を、貫名海屋に書を、梁川星巌に漢詩を、岸駒、岸岱父子に絵を学んだ。その後、江戸に出て佐藤一斎・梅坡に経学、国学、蘭学も学び、谷文晁、葛飾北斎らと親しく交友した。
31歳で郷里小布施に戻った鴻山は、家業のかたわら人材の育成や芸術・学問の振興に尽力し、政治経済の面でも大きな業績を残した。幕末には海防論、公武合体論などを唱えてしばしば幕府に献言し、開国を唱えて暗殺された佐久間象山らとも交流した。天保の飢饉では自ら蔵を開放して難民を救い、幕府筋に盛んに献金して貿易の振興を建白した。
晩年描くようになった妖怪画は、幕末・維新の騒然とした時局を風刺し、不正などへの義憤が表現されているとされる。
江戸で親交のあった葛飾北斎は、その晩年の8年間に4度、小布施の鴻山宅を訪れて滞在している。その間、小布施の東町祭屋台の天井に龍と鳳凰を、上町祭屋台の天井に怒濤図2枚、高井家の菩提寺・岩松院本堂の天井に鳳凰図などの大作を残している。北斎は、最後の訪問から江戸に戻って間もなく90歳で没している。
高井鴻山(1806-1883)たかい・こうざん
文化3年上高井郡小布施村(現在の小布施町)生まれ。字は士順、名は健、通称は三九郎。生家は大名や公卿相手に商売をした豪商。文政3年、15歳で京都に出て摩島松南に経学と詩文を、貫名海屋に書を、岸駒父子に絵を学んだ。文政9年に帰郷して市村かずと結婚、翌年妻を伴って再び京都に出て、梁川星巌に詩文を学び、春日潜庵と交流して陽明学を修めた。天保3年師の星巌に従って江戸に出て、佐藤一斎、佐藤梅坡の門に入って経学を学び、そのかたわら国典、国雅俳諧、蘭学を学んだ。天保7年諸国飢饉に際して帰郷、倉庫を開いて難民を救った。翌年上田の毘沙門堂に活文禅師を訪ね禅学を学び、同門の佐久間象山、山寺常山らと交遊した。天保13年秋、江戸で知り合った葛飾北斎を小布施に招き、以降北斎は何度か小布施を訪問した。幕末には海防論、開国と公武合体論などを唱え、幕府筋に盛んに献金した。明治3年伊那県に民政水利建白書を提出。同年末には中野騒動の鎮圧にあたった。明治4年文部省出仕となり、翌年東京府出仕となった。明治8年東京市芝区西久保巴町に私塾「高矣義塾」を開設したが、2年後に閉塾して帰郷。明治12年長野に「高矣義塾」を開設した。明治16年、78歳で死去した。
長野(18)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第1巻、北信濃の美術 十六人集、信州の南画・文人画、長野県美術大事典