三代にわたって松代藩の絵師をつとめた大島家の初代・大島芳雲斎(1766-1840)は、天明年間に江戸に出て木挽町狩野家に入門した。この時期は、松代藩江戸詰の絵師として木挽町狩野家の門人だった晩年の三村自閑斎と、その子養益が江戸におり、養益は狩野家の長屋に住み込んでいたことから、芳雲斎は自閑斎か養益に学んだと思われる。その後帰郷し、寛政年間に松代藩の絵図師として抜擢された。
二代の大島芳暁斎(1823-1886)は、芳雲斎の二男として埴科郡柴村に生まれ、父について絵を学び、天保11年の父の没後から絵図師として松代藩に仕えた。旅を好み近在の絵の仲間を訪ね歩き、また、水墨山水もよくした竹村杏村ら学者とも交友した。
三代の大島芳所(1864-1927)は、芳暁斎の二男として生まれ、父について狩野派を学んだが、明治20年代に松代に仮寓していた佐久の加藤半渓に南画を学び、曲涯漁人と号して明治期に活躍した。
大島芳雲斎(1766-1840)おおしま・ほううんさい
明和3年埴科郡柴村(現在の長野市松代町柴)生まれ。名は久蔵、または清方。江戸に出て木挽町狩野家で学んだと伝わる。帰郷後、寛政年間に松代藩の絵図師となり、人物、花鳥、山水と幅広く描いた。天保11年、75歳で死去した。
大島芳暁斎(1823-1886)おおしま・ほうぎょうさい
文政6年埴科郡柴村(現在の長野市松代町柴)生まれ。大島芳雲斎の二男。名は末太郎、または清次。父芳雲斎について画を学び、天保11年の父の没後から松代藩絵図師をつとめた。明治15年、60歳で死去した。
大島芳所(1864-1927)おおしま・ほうしょ
元治元年生まれ。大島芳暁斎の二男。名は久作、または清行。別号に曲崖漁人がある。父芳暁斎について狩野派を学んだが、その後、佐久の加藤半渓に南画を学んだ。昭和2年、64歳で死去した。
長野(7)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第1巻