画人伝・宮城 狩野派 山水・真景

仙台藩御用絵師・荒川如慶とその画系

荒川如慶「奥州仙台領街道絵図」のうち「笊川付近」

荒川如慶「奥州仙台領街道絵図」のうち「中田宿部分」

仙台藩御用絵師をつとめた家系のうち、江戸中期、後期において活躍をみせるのは、荒川家と菊田家で、両家は藩御用絵師としての家系を幕末まで維持した。

荒川家は、仙台藩五代藩主・吉村の時に御用絵師として仕えた荒川如慶に始まり、その後代々御用絵師をつとめた。如慶は江戸の人で、木挽町狩野家の三代目・如川周信に学び、秀才の誉れ高かったという。

初期の作品としては、享保17年に描かれた「福浦島毒竜庵図」「洞水和尚福浦長養図」が知られている。毒竜庵は寛永16年の造営で、開山の瑞巌寺百世洞水東初はここで4年間の修行に励んだとされる。この年の7月10日に松島を訪れた五代藩主吉村が、再興された庵を見て喜び、かたわらの如慶に命じて描かせたのがこの2作品である。

掲載の「奥州仙台領街道絵図」は、仙台領内を通る奥州街道を描いたもので、農村部の水田風景や遠景の山並みの描写、板葺、藁葺の屋根が連なる宿場の町並みからは、街道の正確さよりも藩内の情景表現を重視したことがうかがえる。

荒川如慶(1707-1767)あらかわ・にょけい
宝永4年生まれ。名は周良。別号に泰入斎がある。狩野如川周信に師事した。仙台藩五代藩主・吉村の時に御用絵師として仕えた。明和4年、61歳で死去した。

荒川洞月(不明-1808)あらかわ・どうげつ
荒川如慶の孫。名は義昌、本姓は中川。岩沼邑主・古内氏の家臣だったが、画を狩野洞雲に学び、荒川家を継いだ。仙台城二の丸、柳の間に柳を描いた。俳諧もよくした。文化5年死去した。

荒川養湖(不明-不明)あらかわ・ようこ
荒川洞月の孫。狩野養川院惟信に学んだ。晩年養堅堂の史員となった。

梅津月橋(1777-1858)うめつ・げっきょう
安永6年生まれ。名は清寧、通称は勇治。別号に梅庵がある。画を荒川洞月に学んだ。茶道、生け花、彫刻などもよくした。松島瑞巌寺に五百羅漢の三幅対がある。安政5年、82歳で死去した。

宮城(6)-画人伝・INDEX

文献:仙台画人伝、仙台藩の絵師、仙台市史通史編4(近世2)、仙台市博物館館蔵名品図録




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