松阪の文人としては、全国的に名高い国学者の本居宣長(1730-1801)がいる。宣長の門人は伊勢地方にも多くいるが、その中に目立った画業を残したものは見当たらない。他には、北海道の名付け親として知られる冒険家の松浦武四郎(1818-1888)、豪商で私立図書館をつくるなど教育と細民の救済にあたった竹川竹斎(1809-1882)、女性歌人の高畠式部(1785-1881)らが余技で画を残している。画人としては、谷川士清の門に学んだ三井丹丘、春木南溟の高弟とされる亀井南皐らがいる。
荒木是水(1657-1713)あらき・ぜすい
明暦3年松阪町生まれ。名は山三郎、字は蔵六。佐々木志津麻に師事して書を学び、特に大字を得意とした。画もよくした。正徳3年、57歳で死去した。
三井丹丘(1729-1811)みつい・たんきゅう
享保14年飯高郡丹生生まれ。字は伯顧、通称は建章。医を業とし、谷川士清の門で学び、師の要請により肖像を描いたものが残っている。文化8年死去した。
長井槐斎(1730-1786)ながい・かいさい
享保15年松阪中町生まれ。通称は環、別号に逸堂がある。医を業とし、書道に長じ、画も巧みだったという。天明6年、57歳で死去した。
鈴木豹斎(不明-1835)すずき・ひょうさい
松阪湊町の人。通称は小野屋利右衛門、名は英仲、字は禎吉、別号に有儘室がある。画法に心を傾け、年少の頃から四方に周遊し、蝦夷の地に入った。特に豹を多く描いたので豹斎と号したという。天保6年死去。
小津石斎(1785-1857)おづ・せきさい
天明5年松阪本町生まれ。通称長澄、別号に陳三碧、天青、崖釣隠などがある。伯母・小津慈源の養子となって新五郎と改名、のちに結婚して清左衛門と改めた。幼い頃から画を好み、13歳から津藩士・烟崖について山水花鳥を学んだ。のちに明清の名蹟を追慕し研究した。また、本居春庭に和歌を学び、千認得斎に学んで點茶の道にも入った。安政4年、73歳で死去した。
亀井南皐(1798-1855)かめい・なんこう
寛政10年松阪町大字殿町生まれ。名は退蔵、幼名は繁三郎、字は源密。幼い頃から画を好み、春木南溟に師事し高弟とされた。当時の松阪の画家はおおむね南皐の門に入ったという。安政2年、58歳で死去した。
三重(9)-画人伝・INDEX
文献:本居宣長と津の門人たち、三重県の画人伝、三重先賢傳・続三重先賢傳