
狩野宗秀「花鳥図屏風」(右隻部分)
狩野宗秀(1551-1601)は、狩野永徳の8歳下の弟で、兄から画法を学んだ。兄・永徳の影響力は絶大だったとみえ、掲載の「花鳥図屏風」など永徳作品によく似た大画作品を残している。永徳の弟には宗秀のほか長信もいたが、ともに遺作は乏しく、永徳の伝承作品のなかに埋没しているのではないかと推測されている。
宗秀の画業は、兄・永徳と共同での障壁画制作などが中心だったと思われるが、織田信長が安土に新首都造営を始めた時には、安土に転居した永徳に代わり、当時26歳の宗秀が狩野宗家の当主として京都の家屋敷を守った。その後安土が廃墟となり永徳が京都に戻ると、宗秀はまた兄に従った。
永徳の陰に隠れがちだったが、永徳没後は狩野派を代表する絵師として活動し、兄より11年長生きした。臨終の床では兄の子・光信に対し、後継者について「私の息子(甚之丞)は万事よきように取り計らってくれてかまわない。不慮のことがあれば、跡継ぎはあなたが決めてくれてよい。古法眼(元信)の御跡が絶えてはいけない」と言い残したという。
狩野宗秀(1551-1601)かのう・そうしゅう
天文20年生まれ。狩野松栄の二男。狩野永徳の弟。名は松信、または秀信、季信。通称は甚之助、または甚丞といい、宗周ともいった。画法は父や兄永徳に学んだ。慶長4年桂宮の新殿襖絵を手掛け、法眼に叙された。作品は「花鳥図屏風」のほか、「織田信長像」「三十六歌仙図」「南蛮寺扇面」、滋賀円満院の花鳥図の襖絵などがある。慶長6年、51歳で死去した。
京都(54)-画人伝・INDEX
文献:狩野永徳と京狩野、原色日本の美術13、日本画家人名事典







