幕末から明治における熊本画壇は、南画と復古大和絵系が二つの大きな流れを作っていたが、熊本藩の御用絵師をつとめていた矢野派の画家たちも画壇の一翼をになっていた。その矢野派本流のなかで、明治以降も活躍したのは、熊本藩最後の御用絵師・杉谷雪樵(1827-1985)である。
雪樵は、御用絵師だった父に手ほどきを受け、矢野家六代の矢野良敬に入門した。19歳の時に父が没したため、杉田家の当主となり、その後藩御用絵師となった。安政元年、27歳の時に藩命により江戸に出向き、藩邸の事務に従事、この8年間は画事から遠ざかった。帰郷後、再び絵筆をとるが、40歳の時に明治維新を迎え、藩の仕事を失い、時代は南画隆盛のため、北画的な雪樵の画風は世間に受け入れられず、生活苦を余儀なくされた。
当時の南画ブームに対して画論を書いて反論したり、ひたすら雪舟流雲谷派の復興に没頭する雪樵だったが、生活苦のためか南画的な傾向に走った時期もあったとされる。そんな苦境のなか、宋元画、明清画、四条派、大和絵など古典的な作品を研究し、一様式を確立すべく努力を重ね、御用絵師時代の画風から脱却をはかり、画業を充実させていった。
明治20年、60歳の時に上京、旧藩主細川家の援助を受ることとなった。以後没するまで同家で8年間筆をとり、日本画近代化の覚醒期の中央画壇の刺激を受けながら画業を展開した。その間、宮内省から御用画をたびたび受け、細川家においては同家日本館の杉戸絵制作をおこなうなど精力的に活動、次第に東京でも名を知られるようになっていった。
杉谷雪樵(1827-1985)
文政10年熊本生まれ。杉谷行直の長男。名は敬時、通称は一太郎。別号に洞庭子がある。はじめ藩御用絵師だった父行直に学び、のちに矢野家六代良敬に入門した。弘化2年、19歳の時に父が没したため杉田家の当主となり、その後藩絵師として召し抱えられた。明治維新後は、藩の仕事を失い生活苦を余儀なくされたとされるが、細川家や松井家からの仕事があったとする資料もある。明治20年からは上京して旧藩主細川家の援助を受けて制作活動をおこなった。明治22年に宮内省の用命によって孔雀図を制作、以後もたびたび御用画を受けたという。また、細川家においては明治25年に新築完成した同家日本館の杉戸絵制作をおこなうなど、没年まで同家で絵筆をとった。門人に近藤樵仙らがいる。明治28年、東京において68歳で死去した。
杉谷行直(1790-1845)
寛政2年生まれ。熊本藩御用絵師。名は一右ヱ門。別号に雲峯堂がある。衛藤良行に師事した。初号は行宗。行宗時代に肥後狩野派薗井守供の画系に属する安武貞幸と共に描いた《加藤清正一代記絵》が本妙寺に残っている。弘化2年、56歳で死去した。
熊本(11)-画人伝・INDEX
文献:杉谷雪樵 熊本藩最後のお抱え絵師、熊本県の美術、肥後の近世絵画